あまりにも特殊な人にやられ続けたので、ほかの人が理解できないのである。ほかの人の「理解する枠」を超えたことが、起こったのである。
どうしてかというと、きちがい兄貴が、きちがい兄貴だからだ。
これ、俺だって自分の兄のことを、きちがい兄貴とは呼びたくない。
しかし、やったことがひどすぎる。
そして、これは、毎日毎日やったことなのだ。当然、積み重なれば、影響がでかくなる。積み重なった悪影響を、改善することができなくなる。
ところが、ほかの人には、きちがい家族がいないので、ぼくがされたことが、どういうことなのか、わからないのである。
どうしたって自分の枠内で、理解しようとする。そうすると、やられたことがないことに対する理解なので、ズレてしまのである。兄貴が特殊すぎるので、うちの兄貴のようなことをする人がいない。ほかにはいない。
だから、ほかの人は、兄貴のような家族とは、一緒に住んだことがないのである。一生のなかで、きちがい兄貴のような家族と一緒に住んだことがないのである。だから、兄貴のような家族に、やられたことがないのである。
だから、やられると、どういうところにまで、影響が出るのかということについて、考え違いをしてしまうのである。
そして、他人のことは他人のことだから、基本的に関係がないわけである。他人が、あることでくるしんでいても関係がないわけである。自分がくるしいわけじゃないからだ。
兄貴がやったことは、騒音という、だれもが経験することなのだけど、兄貴のやり方が異常なので、異常な騒音にくるしむことになったのである。
けど、異常な人が鳴らす、異常な騒音が毎日続いたことがない人が、大半なので、この人たちは、きちがい的な家族がもたらす異常な騒音を経験していないのである。何度も言うけど、他人のくるしみなんて、いたくもかゆくもないのである。
だから、「こうすればいい」と、頭がおかしいことを言うことができる。
もう、これ、兄貴が、普通の人がやらないことを、十数年間という長期間にわたってやったときから、決まっているのだ。そんなの、実際にやられなければ、理解できるはずがないことだ。
だれだって、つかれたことはあるけど、きちがい家族によって、つかれたことは、少数者しか経験していないことだ。
そして、うちの場合、きちがい兄貴の感覚や、きちがい兄湯のやり方が、ほんとうにきちがいなので、ほかの人にはわからないということになる。ほかの人というのは、きちがい家族と一緒に住んでいないほかの人という意味だ。
すべての人とは言わないけど、たいていの人は、デフォルトで、理解しないのである。
ネガティブなことを言うことは、悪いことで、ポジティブなことを言うことは、いいことだということになっている。なっているとする。
その場合、実際の個人差というものを、ガン無視して、そういうことを言っているわけである。個人の環境なんて、月とすっぽんだ。個人の環境なんて、ぜんぜんちがう。環境がもたらすことを、無視することはできない。
しかし、これに関しても、「無視がデフォルト」なのだ。無視して当然。無視して、ものを言って当然だということになる。
環境が悪い人……多くの悪い条件をかかえている人に……「言えば言ったことが現実化するので、ポジティブなことを言えばいい」と言うこと自体が、ポジティブなことか、ネガティブなことかというと、ネガティブなことだ。
これがわかってない人たちがいる。
これがわかってない人たちが、いっーーーぱいる。
一見ポジティブに見えるけど、相手の条件を無視しているという点で、すでに、ネガティブなのである。相手の条件を無視した助言というものは、もう、言った時点で、ネガティブなことをしたということになるのである。
どうしてかというと、相手の条件を無視したからだ。