ネガティブな言葉を使わなくても、ネガティブな条件があるなら、不幸な状態になるのである。ところが、ネガティブな条件を無視してしまうので、対立がしょうじるのだ。言霊主義者が、不幸な人の条件を無視して、不幸なのは、その人がネガティブなことを言ったから、不幸になったのだと思っているから、対立がしょうじるのである。
元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がするということが、言霊理論が正しいという根拠になっている言霊主義者がいたとする。
ところが、元気だ元気だと言ったから、言霊の力によって、元気になったような感じがしたのではないのだ。
「自己暗示」というように、これは、言葉の力で、元気になったような感じがしているだけだ。「言霊の力」で、元気になったような感じがしたわけではなくて、「言葉の力」によって元気になったような感じがしただけなのだ。
こういうところで、勘違いをしているのである。
もともとが、勘違いなのである。
自分のことなら、内臓が機能不全になって、元気ではなくなった場合、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないということがわかるのだ。ところが、他人のことだと、それがわからなくなってしまう。絶対に、言霊(理論)は正しい」と思っているので、ひとごと、であれば、内臓が機能不全になって、元気ではない場合も、「元気だ元気だ」と言えば、元気になるということになってしまうのである。
ほんとうは、いくつかの系列があるのだけど、二系列に限って言っておこう。たとえば、「元気だ元気だ」と言うと、元気になったような感じがするというのは、アファメーション・身体感覚系統だ。
自分の身体感覚や、自分の気分に関係することで、言葉を使った自己暗示によって、そのような気分、もしくは、そのような状態になったと思う系統だ。
それとは別に、「神様系統」があるのである。
まったく別の系統なのだ。
このふたつが(言霊主義者の頭のなかで)まじっているから、問題が発生する。
神様系統は、不思議な力によって、問題が取り除かれるという妄想的な信念に関係している系統だ。ようするに、これは、ただ単にそういう感じがすると言っているわけではなく、ほんとうに、超物理的な力によって、問題が取り除かれるはずだと言っているのである。
「元気だ元気だ」の例を使って説明すると、内臓が機能不全になって、元気がなくなった場合、内臓が機能不全の状態から、もとの機能している状態になるから、元気になるということになる。
内臓を修復するのが、言霊の神様なのである。
だから、これは、気分がするだけではなくて、ほんとうに、物理的な修復がなされるタイプだ。
もちろん、言っただけでは、修復がなされないのだけど、内臓が物理的に修復されるような出来事を引き寄せることができるという信念があるのである。ただ単に、信念があるだけで、ほんとうは、言霊にはそんな力はない。
けど、そういう力があると信じているのだ。
これは、超物理的な力で、魔法のような力だ。
そういう便利な力によって、内臓が修復するのだ……と信じている。
何度も言うけど、この神様的な力というのは、「元気だ元気だ」と言ったら、自分が元気になったような感じがしたというような言葉の力とは関係がない。
言霊という、カルトワードがかかわっているので、両者を区別しないようになっているだけだ。
基本的に、「元気だ元気だ」と言ったら、元気になったような感じがしたというのは、身体感覚系のことであって、この身体感覚系のことが、自分の外側にある「神様の力」の証明になるという考え方は、完全にまちがっている。まったくちがうことについて、述べているのである。
そして、アファメーション・身体感覚系のことが、外部にある神様の力の証明になると考えること自体がおかしいことなのだ。
これ、だましがある。
完全にちがうことについて述べているのに、「言霊」というおなじ言葉を使っているので、そういう能力が言霊にはあるということになってしまうのである。
けど、だまされている。
これは、だましポイントのなかで、重要なだましポイントだ。
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不幸の種類や不幸の分野や不幸の度合いが、人によってちがうので、他人の不幸には、鈍感になることができるのである。鈍感になると、「ネガティブな言葉を言ったから、そうなった」という考え方が支配的になるのである。
言霊を信じている人だと、そうなる。自動的にそうなる。
実際に不幸な人は、不幸なことを言っている悪い人なのである。言霊主義者のあたまのなかではそうなる。そして、だれかが不幸なら、それは、その人が不幸なことを言ったからいけないのだということになってしまうのである。
「かゆいかゆいと愚痴を言うからかゆくなる」というようなことを、書いたけど、まさしく、こういうことが、すべての不幸なことについて、発生するのである。
ようするに、そこそこ、不幸な人でも、他人の不幸に関しては、鈍感になって、言霊思考をしてしまうのである。不幸の種類や不幸の分野や不幸の度合いがちがえば、理解力がなくなり、その対象となる人が、不幸なことを言ったから、不幸になったのだと決めつけてしまう。
こういう状態が、言霊信仰から、導き出されてしまう。
言霊信仰が、こういう態度を、つくりだしてしまう。そうなると、「人が人に対してオオカミになってしまう」のである。特別にしあわせではなくても、相手が抱える特別な不幸を経験していなければ、相手が抱える特別な不幸は、言霊理論を使って、せめることができる、不幸になってしまうのである。
現実の条件が押し出してしまう不幸というのはある。ところが、現実の条件を無視して、その人が言ったから、そのような状態が発生したのだと考えてしまうのである。
ちょっとでも、分野がズレれば、自分が一倍速で体感したこと以外のことについては……つまり、他人の身に起こったことについては、「言った」ということが理由になってしまうのである。
言わなくても、言霊主義者のなかでは、そうなってしまうのである。
そして、結果として言った場合は、結果として言ったわけだから、「言ったということになる。そうしたら、言霊主義者は、言ったからそうなったと確信してしまう。よけいに確信してしまう。
自分のことなら、「蚊に刺されたからかゆくなった」と考えることができる言霊主義者は、他人のことだと「かゆいと言ったから、かゆくなった」と考えることしかできなくなってしまうのである。
そうなると、かゆいと言ったのは、その人だから、その人が悪いということになってしまうのである。その人が不幸なのは、不幸な条件があるからではなくて、不幸なことを言ったから、不幸なんだと決めつけてしまうのである。
もちろん、不幸なことを言った人が悪いということになるのである。
そして、ポジティブなことを言えば、不幸な条件からもたらされることは、解消されることになるのである。ところが、これが、嘘なのだ。
かゆいと言わなくても、蚊が家の中にたくさんいるという条件をかかえている人は、かゆくなるのだ。「かゆい」と言わなくても、蚊に刺されるという物理的な問題が解決しない。実際に、その問題をうみだしていること……には、言霊は影響をあたえない。
これは、「元気だ元気だ」と言えば、自分が元気になったということとは、ちがうことなのである。
外側に……言霊という神様を想定して、言霊という神様におねがいをすれば、一〇〇%の確率で、神様がねがいをかなえてくれるということを言うわけだけど、残念ながら、一〇〇%の確率で、言霊の神様は、ねがいをかなえない。
どうしてかというと、「言霊の神様」なんていないからだ。
彼ら……言霊主義者が、「言霊はある」……と思ったのは、元気だ元気だと(自分が言ったら)元気になったような気がしたからだ。
あとは、言霊主義者の頭のなかでは……「明日は雨がふる」と自分が言ったあと、雨がふったから、言霊があるということになっている……。これも単なる誤解だ。「言ったあと」と「言ったから」の区別がついていないから、誤解をしてしまう。
言霊があるということは、言葉に宿っている神様がいるということになるのである。自分の体感関係のことは、じつは、自分の外側に……「言霊の神様」がいるということの証拠にはならない。
しかし、体感関係のことが、「言霊」があることの証明になってしまっているのである。基本的に言って、証明にはならない。証拠にもならない。
だから、言霊主義者というのは、ここらへんのことを誤解しているにすぎない。
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「人が人に対してオオカミになってしまう」と書いたけど、「人が人に対して悪魔になってしまう」のである。言霊理論を信じることによって、「人が人に対して悪魔になってしまう」のである。