パチンコが大好きな言霊主義者がいたとする。「パチンコで勝つ」と言って、家を出た。
けど、実際には、負けた。
この場合、言霊主義者は、「言ったことが現実化しなかった」ということについて、考えない。けど、負けたということはわかるのである。「パチンコで勝つ」と言ったのに「パチンコで負けた」という認識はあるのである。
しかし、この認識があるときも「言ったことが現実化する」と思ったままなのである。
どうしてこのようなことが可能かというと、「言ったことが、現実化する場合だってある」という意味を込めて「言ったことが現実化する」と言う場合と、「すべての言ったことが、かならず現実化する」という意味を込めて「言ったことが現実化する」と言う場合があるからだ。
ようするに、「言ったことが現実化する」というひとつの文に、まったくちがった意味を込めて、使い分けているのである。
ただし、自分が使い分けているという自覚がまったくないのである。負けた途端に「言ったことが、現実化する場合だってある」という意味になってしまうのである。
負けた途端に「言ったことが現実化する」という文は「言ったことが、現実化する場合だってある」という意味になってしまうのである。
そして、次の日起きて、「昨日は負けたけど、今日は絶対に勝つ」「勝つと言えば勝つ」「言ったことが現実化する」「これは、絶対の法則だ」と言っているときは、「すべての言ったことが、かならず現実化する」という意味で「言ったことが現実化する」と言っているのである。
「言ったことが現実化する」という文の意味が、いれかわっている。
そして、いれかわかっていることに、本人が、気がつかない。まったくの無自覚。無意識的に使い分けている。使い分けているという意識がまったくない。
だから、気分次第で、その都度、おなじ文で言っていることの意味がちがうというとになる。
自分が実際に体験している場合でも、「そのつど」ちがう意味を込めて「言ったことが現実化する」と言っている場合もある。気分次第なのだ。