このさき、どうするかな?
俺が理想している「やる気」が出てこなくてもいいから、そこそこ、普通の「やる気」が出てきてくれないかな。
重たい気持ちになるのは、ダニで作業員の人を苦しめてしまうというようなことなのだ。できれば、刺されてほしくない。ビニール製の防護服やレインコート上下を着れば、抱きかかえるように布団を持ち上げたとしても、刺されないとは思う。
けど、なんか、ゴミ処理場所に行ったあと、作業をしなければならないらしく、そのときに刺される可能性はある。だいたい、防護服?やレインコートを着たまま、車の座席にすわると、車の座席にダニがつく可能性がある。
きちがい親父が、さなかを出す前は、ほんとうに、ネズミなんて一匹も入ってこなかったのだ。
あとで考えると、いろいろなところに、隙間があるのだけど、隙間があるにもかかわらず、一匹も、ネズミがはいっこなかった。ネズミがはいってくるようになったのは、親父が、一日に二三時間、粕漬の魚をテーブルの上に置くようになってからなのだ。
一カ月間ぐらい、そういうことをしていたら、ネズミがはいってくるようになった。
普通はやらないことだし、「部屋中がすごいにおいになるから、魚を冷蔵庫に入れてくれ」と言われたら、冷蔵庫に入れようと思うものなのである。
ところが、言われたら、きちがい感覚が爆発してしまう。
きちがい的な意地で、否定して、絶対に、自分が思った通りに、一日に二十三時間近く、魚を出しっぱなしにしようと思う人なのだ。こんなの、普通はありえない。
「におわないよ!!におわないよ!」と真っ赤な顔をして、絶叫している姿を、ほかの人にも見せたい。
だって、実際に、見ないと、信じてくれない。
どういう意地でやっているか、ほかの人は、理解してくれない。
ほかの人は「そんなのは、くさいから、やめてくれ」と言えばいいでしょと思っている。
ところが、一筋縄ではいかないのだ。普通のことが通用しない。きちがいスイッチが入ってしまうと、きちがい的なことに、こだわってこだわってこだわって、こだわって、絶対に、なんだろうが、自分が思ったことを、やるということになる。
やり続けるのである。
絶対の意地でやり続けるのである。これだって、兄貴のヘビメタ騒音と似たようなところがあるのだ。普通の人が、絶対にやらないことを、きちがい的な意地で毎日やる。修正が効かないのである。「やめてくれ」と言ったら、きちがい的な意地でやりきるのである。やりきろうとするのである。
殺さないと、実際にやってしまうのである。
これ、きちがいの感覚だと、意地を通してやったことになっていないのだ。これも、きちがい的でおかしい。おかしいのだけど、つねに、普通に、そうなのだ。そうなっているのだ。
きちがい兄貴ときちがい親父はそういうところで、まったく一緒で、きちがい黄な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。でっ、自分の行為で、相手がこまっているということも、きちがい的な意地で否定して、まったく気にしないのだ。こまるんだよ。
どうせ、やったことを認めないことなのだから、本人は、意識的にはこだわっているつもりがないのだ。
けど、やったことを認めないというのは、一〇〇%の意地で、一〇〇%自分が思った通りにやりきったときに、発生することなのだ。
ともかく、普通の人とは、ちがうのだ。だから、普通の人は、きちがい親父やきちがい兄貴のことについて、普通に誤解をするのである。「そんなんじゃないんじゃないの」「ちゃんと言えばわかってくれるよ」と普通の人は、思うし、そのように、言うのである。
ところが、きちがい兄貴の脳みそも、きちがい親父の脳みそも、ここに書いた通りの脳みそで、絶対の意地で、聞かないのだ。「絶対の意地で聞いてやらなかった」ということも、絶対の意地で認めないということになる。
「絶対の意地で聞いてやらなかった」ということを認めるのがいやなのである。
だから、何度も言うけど、ネスト構造が成り立っている。こまるんだよーー。こまる。
きちがい親父の自分が原因になって出している魚のにおいに対する態度と、きちがい兄貴のヘビメタに対するとい態度が、まったくおなじなのである。
きちがい兄貴が、たとえば、きちがいヘビメタをものすごい音で鳴らしているとき、俺が兄貴に、「やめてくれ」と言ったとする。
そのときの、認めたくない気持ちと、「俺がどれだけ言っても、やめてくれなかった」ということを認めたくないときの気持ちが、まったくおなじなのである。
だから、猛烈に、こまるんだよ。兄貴は、きちがい的な意地で、弟の人生を破壊するようなことを、毎日、やり続けた。
けど、「やり続けたつもりがない」のである。これがまったくないんだよ。
そして、ほんとうに、きちがい的にでかい音で鳴らしていたのだけど、でかい音で鳴らしていたというつもりもないわけ。どうして、つもりがないかというと、「ものすごくでかい音で」鳴らしたかったからなのだ。「でかい音で、鳴らしている」というとをちょっとでも認めたら、自分がしずかにしなければならないような予感がするのである。
そういう予感がするときは、スイッチが入ってしまって、絶対に、認めないのである。これが、無意識的な過程だから、本人は、ほんとうに気がついていないのである。
やられている側からすると……兄貴は、きちがい的な意地でやっているのだから、きちがい的な意地でやっているということがわかっているはずだ……と思ってしまうのだけど、ほんとうに、ほんとうに、まったく、わかってないのだ。
わかってない状態で、生活して、生きている。そういう存在なのだ。こんなの、普通の家で育った人に、わかるはずがない。
これから、親父の話ではなくて、兄貴の話をしようと思う。普通の家で育った人は、ヘビメタ騒音の被害を認めないのである。実際に自分がやられたことがないから、わからない。想像の話だから「自分なら平気だ」と思って、「そんなのは関係がない」と言う。
ところが、ぎちゃぎちゃに、関係があるんだよ。
どれだけ無視して、どれだけ影響をうけないように、はりつめた気持ちで生きていても、やられているから、体が被害をうけている。精神が影響をうけている。
この「辛抱状態」に関する理解が、普通の人たちには、これまた、まったくまったく、ないのである。この辛抱状態を軽く考えて、自分なら影響をうけないで、鳴ってないときのように普通に行動できると思っているのだ。
そして、たとえば、鳴ってないときのように、夜に眠って、朝起きるということができると思っているのだ。そりゃそうだろ。
「辛抱状態」のときは、『影響をうけない状態』なのだから、そう思って当然だ。
ところが、辛抱状態のときも、影響をうけているのである。
どうしてかというと、きちがいが、至近距離で、自分のきらいな音を、世の家ではありんないようなでかい音で鳴らし続けているからだ。
* * *
きちがい兄貴の頭の構造によって、きちがい兄貴が、無視してやり続けたことが、ぼくの人生に影響をあたえている。ぼくの毎日に影響をあたえている。
一般人の頭の構造というのもある。一般人の頭の構造によって、きちがい兄貴にやられた特殊な騒音の影響があるということを、認めないのである。
もちろん、自分のところまで、きちがい兄貴の騒音が聞こえるわけではないので、きちがい兄貴の騒音が、ぼくにあたえた影響を認めないのである。一般人の頭の構造によって、『影響はない』と判断してしまうのである。
この判断も、なかなか、くつがえらない。
言霊主義者は、言霊主義者の頭の構造によって、影響を無視した上に、言霊的なことを言うのである。