条件が固定化している場合は、条件がもたらすことについて、言う機会が増えるのである。
たとえば、蚊が一〇〇匹いるような家に住んでいる人は、「かゆい」という機会が増えるのである。「かゆい」と言うから、言霊の力で、かゆくなったのではないのである。「かゆい」と言うから、言霊の力で、蚊が一〇〇匹集まったわけではないのである。
ところが、言霊主義者は、「かゆい」と言うから、かゆくなると、本気で思っている。断言してしまう。原因について勘違いしてしまう。そして、その勘違いを認めない。
「かゆい」と言うからかゆくなるんだと本気で思っているのである。
かゆいという言葉に宿っている、悪い怨霊が、かゆさを引き起こすのである。
かゆいという言葉に宿っている、悪い怨霊が、蚊かが一〇〇匹もいる家に住まなければならないような状態を、引き寄せるのである。
怨霊と書いたけど、「ネガティブな言葉だ」と言霊主義者が考えていることについては、言霊の力というのは、怨霊の力とおなじような意味をもつのである。不吉なことを言うと、不吉なことが起こると考えているのだから、そうなる。
だから、これは、言葉というかたちのないものに対する物神性のようなところがある。
ポジティブな言葉には、神や天使の影響が宿っていて、ネガティブな言葉には、怨霊や悪霊や悪魔の影響が宿っているのである。
まあ、たぶんもっと単純に言うと、ポジティブな言葉には、神が宿っていて、ネガティブな言葉には疫病神が宿っているということになる。神の力によって、そうなるのである。
言葉には言霊が宿っているというけど、意味内容によって、神が宿っていることになったり、疫病神が宿っていることになるのである。
だから、たとえ、「起きなくても」そうなる感じがするのである。これは、ジンクスみたいなものだ。なにか見えない力によって、たとえ、言った時点で、そうならなくても、長い時間を経たあと、そうなるというような感じ方がある。
言った時点と、現実化した時点と言うことを考えると、言霊主義者が、言ったから現実化したと思った時点で、いちおうは、終了するのだけど、言霊主義者が言っても堅実化しなかったと思っているあいだは、いつも、現実化する可能性があることなのである。もちろん、言霊主義者にとっては、そうなる。
ようするに、手短にいうと、やはり、怨霊に近い概念なのだ。あるいは、呪いに近い概念なのである。ネガティブとか、ポジティブということをどうやって決めるのかという問題が、じつはある。
もちろん、言霊主義者は、そんなことでは悩まない。自分にとって、ネガティブだと感じることは、なんでもネガティブなことなのである。自分にとってポジティブだと感じることは、なんでもポジティブなのである。
ところが、本人の現実的な問題について悩んでいるときは、普通に、ネガティブな言葉を使っているのである。言霊主義者は、普通に、ネガティブな言葉を使っている。ところが、まったく気がつかないのである。
言霊主義者が、「あたりまえだ」と思うことについては、「こうすると、こういう悪い結果になる」ということを普通に、考えている。言霊主義者は、「あたりまえだ」と思うことについては、ネガティブな言葉を使っているのだ。
しかし、「あたりまえだ」と思う文脈においては、ネガティブなことを言ったということは、まったく気にならないのである。つまり、「あたりまえだ」と思う文脈では、「疫病神」にならない。「のろい」にならない。
* * *
時系列的なことを考えると、「言った」時刻と、そのあとの時刻が問題になる。そのあとの時刻というのが、複数あるのだ。たとえば、「このままでは病気になる」と言ったあと、病気にならなかったとする。しかし、ならなかったら、その回で終わるというわけではなくて、そのあとも、「このままでは病気になる」と言ったので「のろい」が発生して、「病気になる可能性」がある状態が続くのである。
ポジティブな言葉に関しても、じつは、時効がない。言ったら、「希望」としては、ずっと成り立ち続けるのである。
しかし、それは、現実的なことを考えているときは、普通に、無視されてしまうのである。
「のろい」の場合も「希望」の場合も、現実的な思考をしているときは、ガン無視してしまうのである。
しかし、ガン無視していることに、本人は気がつかない。まったく気がつかない。
言霊主義者は、言霊を信じているので、「病気にならない」と言ったら、「病気にならない」体になるのである。「これ以降、病気にならない」と言ったら、これ以降、病気になることはないのである。
ところが、それでも、現実的な思考をしているときは「ワクチンを打っておくかな」というようなことを考えるのである。どんな、病気がはやっているにしろ、一度「自分は病気にならない」と言ったら、病気にならないのである。
それが、言霊主義者が、「言霊は絶対だ」と考えているときの思考なのである。
けど、自分が病気になる可能性は、あると思っているのである。ある時点で「自分は病気にならない」と言ったにもかかわらず、そのあとのある時点では「自分が病気になる可能性は、ある」と思っているのである。
ちなみに、言霊主義者の言うように、言霊理論が正しいなら、「すべての病原体が消滅する」 と言えば、だれも病気にかかることはないのである。言霊理論においては、言ったことの内容に制限がかかることがないのである。
だから、どんな不可能なことだって、「言ってしまったら」可能なことになり、現実化するのである。そういう力が言葉には宿っていると言うことを言っているのだけど、実際には、『すべての病原体が消滅する」と言ったって、すべての病原体が消滅することはないだろう』と思っているのである。
しかし、人の前では「言霊は絶対だ」と言ってゆずらないのである。言霊主義者は……。
言ったことの内容に制限がかかることがない」ないのだから、「不老不死になる」と言えば、不老不死になるのである。「これ以降、すべての人間が、不老不死になる」と言えば、すべての人間が、不老不死になるのである。
そういう力が、言葉には宿っているのだと言うことを、言霊主義者は、主張しているのである。
信じているのである。
信仰しているのである。
ところが、『不老不死になると言ったって、不老不死になるわけじゃない』と、普段は思っているのである。しかし、言霊主義者は、矛盾をまったく感じないのである。
だから、自分が死ぬことについて考えたりするのである。老後の生活をどうするか考えたりするのである。自分が倒れたとき、救急車に連絡をしようと思ったりするのである。「不老不死になる」とひとこと言えば、死ぬという問題を解決できるのである。
言葉には、言霊というすごい力が宿っているので、ひとこと言えば、死ぬという問題を解決できるのである。そういうことを、言霊主義者は、ほかの人には、言っているのである。
けど、現実的な場面では、自分が死ぬことを考えたりするのである。自分がけがをすることや、自分が病気になることを考えたりするのである。おカネの心配をしたりするのである。
自分の現実的な問題に関しては、強力な言霊の影響なんて、考えないのである。
これが、言霊主義者の実態なのである。