きちがい兄貴も、きちがい親父も、ものすごい意地で、迷惑行為をして、迷惑行為をしたということを認めないやつらなんだよな。
しかも、普通の人がやらないことを、きちがい的な意地でやりやがる。しかも、ずっとやるのである。
どれだけ、「やめろ」と言っても、きちがい的な意地でやってしまうのである。
殺さないと、やめさせることができないのである。
本人は、知らんぷりだよ。
きちがいヘビメタ騒音によって、しょうじた睡眠障害で、俺がどれだけ、「うごけない」思いをしていると思っているんだ。俺にとってものすごく重要な時期も、きちがい兄貴が、知らんぷりで、きちがいヘビメタを鳴らしていた。ちぎれそうな気分でくらしていた。
「鳴り終わったら関係がない」と言うやつがいるけど、そいつは、ぜんぜんわかっていない。しかも、そういうやつが「俺だって騒音ぐらいあった」と言うのである。ほんとうに、腹がたつ。
どうしてこんなことになってしまうんだ。
きちがいにやられて、バカにバカにされる。きちがいにやられて、バカになめられる人生だった。
やりきれなさと、心細さがある。心細さというのは、自分にとって重要なことを、踏みにじられたときの、心細さだ。「これから、どうなるんだ」という不安だ。そりゃ、踏みにじられたあとなのだから、気になるだろ。「どうしてくれるんだよ」という気分もまざっている。そういう不安だ。
きちがい兄貴に毎日毎日、騒音でやられてつらかった。これ、脳の炎症みたいなものなのである。自分の意思ではどうにもできない症状が出てしまうのである。それが、ほかの人から見ると、俺がさぼっているように見えるのである。こんなの、ない。
過去否定論者が、なにを否定しているのか、過去否定論者はわからない。こいつらも、程度はちがうけど、きちがい兄貴やきちがい親父と似ているところがあるんだよ。
こっちから見るとそうなる。
そして、不可避的に発生する不可避的な症状を、不可避的ではない症状だと思っているのだ。ちょっと、俺が本気を出してどうにかしようとすれば、どうにでもなる症状だと思っているのだ。自分なら、そういうことがあっても、そんなことにはならないと思っているのだ。「そんなのは、さぼっているだけだ」と思っているのだ。こんなやつら……。こんなやつら……。