ヘビメタは、きらいな音楽なので、根本的に、くるしいのである。となりの部屋で、あんなにでかい音でヘビメタが鳴っていると、根本的に、くるしいのだ。「根本的にくるしい」ということを、無視するな。
「根本的にくるしい」ということを、ガン無視したやつが、えらそうなことを言う。そいつだって、自分が、この世で、一番きらいな音を、大音量で聞かされ続けたら、くるしいと感じるのだ。根本的にくるしい状態になる。
そいつらには、うちのきちがい兄貴のような家族がいないから、うちのきちがい兄貴が「普通に」やるような音で、自分のきらいな音を、聞かされなかっただけなのだ。
家族によって、自分のきらいな音を、日常的に、いつもいつも、大音響で聞かされるという生活をしなかっただけなのだ。
ところが、「自分だって苦労した」と言えば、日常的に、いつもいつも、自分のきらいな音を聞かされる生活をしたことがないのに、あたかも、日常的に、いつもいつも、自分のきらいな音を聞かされる生活をしたことことがあるという前提で、ものを言えるようになってしまうのだ。
ものを言えるようになったと誤解しているだけなのだけど、誤解している本人が、誤解しているとは思っていないので、実際に、日常的に、いつもいつも、自分のきらいな音を聞かされる生活をしたうえで、「できると言えばできる」「宿題ができると言えばできる」と言っていると思っている。
けど、そいつが、ほんとうに、きちがい兄貴が鳴らしているような音を、日常的に、いつもいつも、ずっとずっとずっと、聞かされ続けたかというと、そうではないのである。そいつは、きちがい兄貴がいない生活をしている。
だから、ちがう。ちがうのに、「自分だって苦労した」のひとことで、ちがわないと思って、発言をすることができるのだ。発言をしても問題がないと思ってしまうのだ。けど、こいつがやっていることは、ひどいことだ。
こっちは、腹がたつ。
やられたこっちは、腹がたつんだよ。
これも、こいつらが、認めないことだ。自分は、正しい発言をしていると思っている。けど、正しい発言ではないのだ。前提がまちがっている発言だ。