「けど、実際に、言ったことが現実化した」と言う人がいる。自分が言ったから、現実化したのだと思っているのだ。この人たちは、いくつかのまちがいをおかしている。
けど、そのまちがいが、自分にとって「ここちいい」ので、否定しないのである。あるいは、まちがいだと認識しないのである。
たとえば、小さいころから、漫画家になりたいと思っていたとする。そして、実際、「デザイナーになる」と言ったら、漫画家になれたとする。
この場合、「言えば言ったことが現実化する」ということは、正しいと思うようになるだろう。実際に、言った。言ったから、現実化したのだと思っても、不思議ではない。
しかし、何回も指摘したように、言った「から」ではないのだ。たしかに、言った。
けど、そのあと行動をしたのだ。二重まわしの例で言えば、「二重まわしができるようになる」と言ったあと、二重まわしの練習をしたから、二重まわしができるようになったのだ。
言ったから、どこかにいる言霊の神様が、神様の力で、二重まわしができるようにしてやったのではないのだ。
「漫画家になる」と言って、漫画家になれた人も、「漫画家になる」と言ったあと、漫画を、実際に、描いたのである。その人の才能があったのである。漫画家になれるような才能がその人には、そなわっていた。
まあ、才能も、内部環境のひとつだ。
だから、内部環境を無視して……「言ったから、そうなった」……と考えるのは、まちがいなのだ。どうしてかというと、しつこくなるけど「言ったから」言霊の力によって、そうなったわけではないからだ。
その人の才能がすぐれていた。その人の、外部環境も、漫画家になるということでは、有利に働いた。だから、けっきょく、現実的な出来事の繰り返しによって、漫画家になったのだ。
どうして、「言ったから」言霊の力で漫画家になれたと考えてしまうのだ?
おかいいだろ。言ったあと、行動したのに、その行動は、ガン無視だ。
これじゃあ、よくない。
なんで、実際の行動をガン無視して「言えば言ったことが現実化する」なんて、アホな考えにとりかれてしまうのか?
* * *
人間はたよりない存在なので、「こうしたのでうまくいく」と思い込みたい存在なのである。だから、神頼みをする。言霊も、言霊という神様にお願いをしたようなものなのだ。
言霊の神様は、言ってしまえば、言ったことを、現実化するように、動いてくれるありがたい神様なのだ。
だから、「漫画家になる」と言えば、「漫画家になる」という言葉に宿っている言霊の神様が、自分を漫画家にするように、動いてくれると思うことができるのだ。神様が、自分を漫画家にするように動いてくれるのだから、自分は漫画家にされるはずだと思って、漫画を描くのである。
その結果、漫画家になれたとする。
その場合、言霊の神様にお願いをしたから、自分は漫画家になれたんだと思っても、不思議ではない。これは、これでいい。
ところが、『社会装置』となると問題が発生する。
自分を対象とした言霊思考と、他人を対象とした言霊思考は、根本的にちがうのである。 自分を対象とした言霊思考は、自分の内部でしていればよいのだ。問題はない。
問題なのは、他人を対象とした言霊思考だ。他人を対象とした言霊思考は、他人を奴隷化する社会装置なのである。自分を対象とした言霊思考は、有害ではないけど、他人を対象とした言霊思考は、ものすごく有害なのである。
他人を対象とした言霊思考は、鈍感さのうえに成り立っている。他人の環境は、ガン無視なのだ。
無視しているということにすら、気がつかない無視をすることになる。
他人を対象とした言霊思考をしてしまうと、自動的に、他人の環境を無視することになるのだ。そして、他人の環境を無視したということに、気がつかない状態になってしまう。
これは、やばい状態だ。
けど、普通はそうなるのである。
自分のことであれば、自分が一倍速で経験したことだから、自分自身に対する影響を、ごく自然に考えることができるのだけど、他人のことだと、自分が一倍速で経験したことではないから、他人自身に対する影響を、ことのごとく、無視してしまうのだ。
しかも、何度も言うけど、無視したことに気がつかない。「俺だって苦労した」「私だって苦労した」と言えば、それで、同等の苦労をしたことになってしまう。
ところが、同等の苦労なんてしてない場合が多い。相手に起こった「出来事の重大さ」を、無視できるので、無視してしまう。自動的に無視してしまうし、自動的に無視したことに、たいていの場合は、気がつかない。