「ポジティブ言葉を使うと、つらい毎日になってしまう」ということを書いたけど、ちょっと付け足しておく。それは、言霊主義者側の、誤解についてなのである。
基本、言霊主義者は「言ったことが現実化する」と考えているので、いかようにでも書き換えることができると思っているのだ。
そのくせ、「西から太陽がのぼると言えば、西から太陽がのぼるのか」ということに関しては、「西から太陽がのぼると言えば、西から太陽がのぼるなんていうのは、おかしい(まちがっている)」と考えるのだ。
自分でも、「それは、むりだ」と思うことに関しては、頑固な言霊主義者も、言霊主義者であることをやめてしまうのである。
ようするに、言霊主義者だって……自分が「それはむりだ」と思うことに関しては、「言ったって、言ったことが現実化しない」と思っているのである。だから、自分がどう思っているかということが、ほんとうは、重要なのである。
言霊理論だけに集中して議論すると……議論なんてものにはならないのだけど……意見をかわすと……言霊主義者は「自分が、それはむりだと思っていることに関しては、言ったって現実化しない」と考えていることを、わすれて、ただ、「言えば、言ったことが現実化する。これは、正しい。実際に自分が言ったときは、現実化した」という話をするのである。
そして、普段、自分が暮らしている場面では「これは、言ったってむりだ」と思うことに関しては「言ったって、言った通りになるはずがない」と考えているのである。そういう矛盾した存在なんだよ……。言霊主義者というのは……。
言霊主義者にとって、自分……が、むりだと考えるか、むりだと考えないかということが、非常に重要なことなんだよ。
他人のことだと、環境(条件の束)を無視してしまうので、「理論」だけが重要になってしまうのである。抽象化した理論だけが重要なことになってしまうのである。だから、言霊理論が正しいかどうかという話になると、言霊主義者は、一種、教条主義者になってしまうのである。
もちろん、その言霊主義者が、教条主義者のことを、きらっていたとしても、教条主義者になってしまうのである。
相手の現実は、見えないから、無視してしまう。
自分が一倍速で経験したことではないので、現実味がないのだ。他人の経験に関しては、まったく現実味がない。
相手の現実を無視してしまうのである。
自分のことなら、「これはむりだ」と思うことに関しても、他人のことだと「これはむりだ」と思わずに、「言えば言ったことが現実化する」と言ってしまうのである。
環境には、内部環境と外部環境があるということを書いたけど、このどっちも、むししてしまうのである。
相手が経験したことは、自分にとってリアルじゃないから、無視できるのである。
自分が経験したことに関しては、メタ認知が成り立っているから、むりだということがわかるのである。相手が言っていることに関しては、……相手が言っているという場面におけるメタ認知は成り立っているけど……言っている内容そのものに関しては、メタ認知が成り立っていないので、平気で無視することができるのである。
だから、「むりだ」とは思わないのである。言えば言ったことが現実化するので、「できると言えばできる」と助言してしまうのである。
つらいことでも、「できる」と言って、がんばればいいということになってしまう。相手のことなら、そういうことになってしまうのである。言霊主義者のなかでは、そういうことになってしまうのである。
ブラック社長の下で働いているときのように、条件が悪い人は、とても、苦労をしているのである。それを「だれだって苦労している」とか「自分だって苦労した」と言って、無視してはいけないのである。
ともかく、つらい状態がすでに成り立っているなら「できるできる」と言って、がんばっても、つらい状態が、よくならないのである。時間経過というものがある。
だから、つかれた状態でがんばっていると、もっとつかれるのである。その場合「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。身体的につらいことを、長い期間続けると、精神的には憂鬱になる場合が多い。
これまた、言葉のあやなんだけど「つらいこと」というのが、一意には切らないのである。
たとえば、テニスの試合をして、つらい状態で、つらいと思いながらも頑張ったとする。その結果、勝てたとする。その場合、『つらくても頑張ってよかった』と考えることができる。
この場合の「つらいこと」は、あとで、憂鬱になるようなことではないのである。
ストレス対抗で、がんばったら、効果があった……あるいは、効果があったと実感できたという場合は、ブラック社長のもとで「つらいこと」をしているような憂鬱な気持にはならないのであるる。
それは、つかれてがんばっても、敗北しかないからそうなる。
「つらいこと」というのも、一意には決まらないのである。
一例をあげて、あたかも、すべての場合において成り立つようなことを言う人がいるけど、抽象化、法則化する場合は、注意しなければならない。
