小学六年生のときから、こいつ(きちがい兄貴)のせいで、勉強することができなくなってこまっているのに、きちがい兄貴が……きちがい兄貴の嫁さんに、「ずいぶん協力してやった」と言ったのである。
「定期テストや入学試験に協力してやった」という意味だ。
これ、ぼくとしては、書く手が震えるほど頭にくることなのだけど、きちがい兄貴は、きちがい親父のように気にしていないのだ。
そして、きちがい兄貴は、きちがい親父のように、誤解をしている。
こんなの、頭がおかしいから……かーーーんぜんに、おかしいから、言えることなんだよ。平気で、嫁さん候補の前なら、「ずいぶん(試験に)協力してやった」と、言えるんだよ。こんなの、きちがい。
気持ちがまったくつながっていない。認識が、統合失調症の人よりもおかしい。自分の態度に関して、ものすごい、思い違いがあるのである。
けど、たとえば、「やめろ(鳴らさないでくれ)」と言われたときの態度おなじなんだよ。正確に言えば、「やめろ(鳴らさないでくれ)」と言われたあとの態度とおなじなのだ。自分が鳴らしたいわけ。自
分が、自分が思った通りの音で鳴らしたいわけ。
「自分が思った通りの音」というのは、こだわりのポイントだ。
絶対に、音をさげたくないわけ。そういうときは、『音がでかい』ということを、認めること自体がいやなわけ。絶対にいやなわけ。
だから、無意識的な命令がくだる。絶対に、意識的にも認めない。
『音がでかい』ということを認めると、自分がしずかにしなければならなくなる……自分が音をさげなければならなくなる……ので、いやなのである。この「いやだ」という気持が、頭がおかしいほど、強いのである。
だから、自分はでかい音で鳴らしていない……ということに、なってしまうのである。
耳が正常なのに……鳴らし始めの時期は耳が正常だったのだけど……耳が正常なのに……「これは、小さな音だ」「これは、さげる必要がないほど小さな音だ」ということになってしまうのである。きちがい兄貴のなかで、そうなってしまうのである。
だから、本人は「でかい音で鳴らしている」ということ自体を、認めないですむのである。
そして、じつはでかい音で鳴らしているのだけど、でかい音で鳴らしているということ自体を認めないで、すませたということが、認識されないのである。
これが、もし、ほんとうは、でかい音で鳴らしているということを、普通に認識していたら、ちがうのである。
でかい音で鳴らしきるために、わざと、でかい音で鳴らしているということを認めてやらなかったということになるのである。「わざと」でかい音で鳴らしているということを認めずに、でかい音で鳴らしきった(そのまま欲望のままに、こだわりの音を鳴らし続けた)ということを、認識できるのである。
わざとだから……認識できる。
自分がやったことがわかる。
けど、「わざと」ではないので、そもそもの、そんなことはやっていないということになってしまうのである。きちがい兄貴のなかで、都合よく、そうなってしまうのである。そのままの認知が成り立ってしまうのである。
……きちがい兄貴だって、自分のヘビメタ騒音以外の音に関しては、普通の認識が、普通に成り立っているのだ。すくなくても、初期段階では、聴覚の問題ではないのである。
けど、あまりにでかい音で鳴らし続けたので、きちがい兄貴の耳が悪くなっている。聴覚に問題が発生した。そうなると、きちがい親父の性格のうえに、きちがい親父の認知症がかぶっさったような状態になってしまうのである。きちがい兄貴の性格のうえに、聴覚の鈍感さという問題がかぶさったような状態になってしまうのである。
ともかく、「認めないでやりきる」という態度は、「認めないで、嘘を言う」という態度と似ているのである。
自分が、よその家では鳴らせないほどのでかい音で鳴らしていたということは、嫁さん候補の前では、認めたくないことなんだよ。
だから、自動的に「しずかにしてやった」「ずいぶん、協力してやった」ということになってしまう。
これ、嘘なんだよ。けど、嘘をつ言ったつもりがないのだ。
こまるんだよ。こっちがこまる。きちがい兄貴は全自動でそういう感じなのである。つねに、そういうことになってしまうのである。
こういうやつだから、俺がほかの人から誤解をされる。嫁さん候補から、俺が誤解されるだろ。
それもひとつの誤解だ。
きちがい兄貴は、きちがい兄貴が思いっきり鳴らしたいときは、一日に一三(じゅうさん)時間一〇分鳴らすときも、絶対の意地で、思いっきり一三時間一〇分鳴らして、一〇分間だろうが、ちゃんと我慢して、ちゃんと静かにしてくるということがなかった。
一〇分間だろうが、絶対の意地でゆずりたくなかったのである。だから、押し通した。
俺がどれだけ「こまるから鳴らさないでくれ」「明日、テストだから、ヘッドホンをしてくれ」と言っても、絶対の意地で、思った通りの音で鳴らしていたのだ。スピーカーから鳴らすことに、きちがい的なこだわりがあるから、ヘッドホンで聴くということがなかった。
俺の勉強のことなんて、かまわずに、きちがい的な意地で、一分間だろうがゆずらずに鳴らしていたのである。だから、テスト当日に俺がこまったのである。
あーー。そういえば、入学試験当日に遅刻したことがあったわ……。あれだって、どんな気持ちになると思っているんだよ。前の日、どんな気持になって、ヘビメタ騒音ががんがん鳴っている部屋で、我慢していたと思っているんだよ。
ともかく、「都合が悪い」……「認めるのが都合が悪い」と思ったら、平気でうそをつくのである。そして、嘘をついたつもりがないのである。嘘をついたという認識がまったくない状態で、暮らしているのである。
どれだけ、こまるかーー。家族にこういう人間がいて、実際に迷惑行為を、きちがい的な意地でやるとどれだけこまるか、わかってない。やられてない人はわかっていない。
毎日やられていない人は、実際に自分が毎日やられたわけではないから……自分のこととして……影響がわからないのである。
ところが、「自分だって苦労した」「自分だって騒音ぐらいあった」と言えば、同質化、同レベル化できるのである。こいつのなかで、同質化、同レベル化できるのである。
これも、そいつの意識のなかで、同質化、同レベル化するだけなんだけど、そいつの頭のなかでは、ともかく、同質化、同レベル化してしまうので、同レベルのことを、経験したということになってしまうのである。
ほんとうは、経験していない。
認知にゆがみがあるのである。思考にまちがいがあるのである。けど、自分なら平気だと思っているので、俺のことを、平気で、ディスってくるのである。
「そんなのは、エイリが気にしすぎなんだ」「俺だったら影響をうけないで、ちゃんと勉強ができる」「そんなのは、エイリが弱いから影響をうけているんだ。俺だったら(強いから)影響をうけないで、試験に行くことができる」と思っているのだ。
あるいは、「そんなのは、エイリが弱いから影響をうけているんだ。俺だったら(強いから)影響をうけないで、遅刻しないで毎日通うことができる」と思ってしまう。
それにプラスして、言霊思考がある人だと、言霊的なことを言うのである。
これも、「言霊的な解決方法があるのに、言霊的な解決方法を採用しないから、ダメなんだ」というダメダシなのである。「言霊は絶対だから、絶対に効く」のである。
努力論者は、「どんな状態だって、努力できる」と言うのである。「どんな状態だって、努力すれば、成功する」と言うのである。「ヘビメタ騒音でできないなんていうのは、いいわけだ」と言うのである。