『思いは現実化する』ということについて考えてみよう。『思い』は現実化するのである。『思いではない思い』はないので、『すべての思い』が、現実化するのである。
「現実化する」と言っているのだから、「現実化しない」ということはない。
現実化すると言ったら一〇〇%現実化するのである。
けど、思ったのに現実化しないという(出来事の)集合があったとする。その集合についてどう考えるかいうことが問題になる。
基本的には、「思う力がたりなかったのだ」とか「深層心理では現実化してほしくなかったから、現実化しなかったのだ」ということが言われるようになる。これはもう、マニュアルで決まっているように決まっているんだよ。
「うまく、イメージすると現実化するけど、うまく、イメージすることができないと現実化しない」……という場合は、ようするに、思いは現実化しないのである。
思いの内容をうまくイメージすることができる人の場合は、思いの内容が現実化するけど、思いの内容をうまくイメージすることができない人の場合は、思いの内容が現実化しないのであれば、最初から「思いは現実化する」と言えないのだよ。
ようするに、へたくそだと、『思いは現実化しない』のである。うまくイメージできる場合だけ、現実化するのである。
それならば、『思いは現実化する』というのは『思えば、すべての思ったことが一〇〇%現実化する』という意味にはならない。
これが、「たりてない場合」の話だ。
* * *
「深層心理では、現実化してほしくないと思っているから現実化しない」ということについて考えてみよう。
言ったことですら、言ったかどうかあいまいになるときがある。思ったかどうかについては、よくわからないのだ。そりゃ、寝ているあいだに思ったことまで含めると、自分が「それ」を思ったのかどうかわからないということになる。
「思ったこと」と「思わなかったこと」の境界が、そもそも、あいまいなのだ。
人間の場合はそうなる。
そこに、「本人が気がつかない」という意味で「深層的な思考」を持ち込むと、本人が気がつかないうちに思ったというようなことが、言えるようになる。
けど、これは、フロイトの無意識とはちがうんだよ。これに関しては、以前書いたので、今回は書かない。
問題なのは、「深層心理では、現実化してほしくないと思っている」と言われたとき、「深層心理で現実化してほしくないと思っていない」ということを、突き通せる人がどれだけいるかということだ。
自分が思ったか思わなかったかの問題なのに、「自分は、深層心理でも、現実化してほしくないと思ってない」と言いきれる人がすくないのである。
そして、もし、「自分は、深層心理でも、現実化してほしくないと思ってない」と言いきってしまうと、『思いは現実化する』という「便利な考え方」を放棄することになるので、『思いは現実化する』という「便利な考え方」に「未練」がある人は、なかなか、「自分は、深層心理でも、現実化してほしくないと思ってない」と言いきることができなくなる。
思いは現実化するという考え方は便利な考え方なので、思いを現実化させたい人(本人)にしてみれば、思いは現実化するという考え方を否定したくないという気持が働くのだ。
これも、トリックなんだよ。
じゃあ、他人である人が、どうして、「深層心理では現実化してほしくないと思っている」と言いきることができるのか?
そんなもの、知りはしないのさ。
これは、『後出し思考』がかかわっている。後出しで、言っているだけだ。
『後出し詐欺』なのである。
ほんとうは、思いに関係なく、思いの強さに関係なく、深層心理で思ったかどうかに関係なく、思っただけで(思った通りになる)のだけど、思わなかったから(思った通りにならなかった)のだと言っているだけだ。思った通りにならなかったという結果が出たので、「思わなかったのだ」ということにしただけだ。
「ほんとうは思っていなかったのだ」という言い方になる。結果にあわせて、現実のほうを言いかえたのだ。
また、DさんとEさんに登場してもらおう。
たとえば、Dさんが、「Eさんはこれ以降、愚痴を言わない」と思ったとする。ところが、次の回に会ったとき、「Eさんが、愚痴を言った」とする。
ようするに、思ったのに、そうならなかったのである。
この場合、そうならなかったということを起点にして考えると、「そうならなかったのだから」……「Eさんはこれ以降、愚痴を言わないとDさんが思わなかったのだ」ということになるのだ。
現実にあわせて、思ったかどうかを決めているだけだ。
現実にあわせて、逆算して、「思わなかった」と決めつけているだけなのだ。
この場合、「Eさんはこれ以降、愚痴を言わない」とDさんが思わなかったということになる。Dさんはじつは深層心理では「Eさんは、愚痴を言わない」と思わなかったということになる場合もある。逆にDさんは、じつは、深層心理では「Eさんは、愚痴を言う(だろう)」と思ったということにしてしまうのである。
もちろん、Dさんは『思いは現実化する』ということを考えて「Eさんは、これ以降、愚痴を言わない」と『確かに』思ったのである。事実、思ったのである。「Eさんに、これ以上、愚痴を言ってほしくない」と思って、深層心理でも「Eさんは、これ以降、愚痴を言わない」とDさんは思ったのである。
* * *
深層心理で思わなかったのではなくて、うまく思えなかったのだという言い訳もある。
Dさんは、うまくイメージして思わなかったのである。うまくイメージして思えば、Eさんは、愚痴を言わなくなるのである。
「思い方」の問題にしてしまうのである。
「うまく思うことができなかったら」「思わなかったのとおなじだ」ということにしてしまうのである。
けど、うまく思わなかったにしろ、思ったのである。
ペテン師の言い訳だ。
なんで、気がつかないかな?
だまされているだけなんだよ。
* * *深層心理でどうかというのは、Dさんにも半分ぐらいはわからないことであり、強く「こうなのだ」言われると、「そうなのかもしれない」とDさんは思ってしまうところがある。
Dさんは……過去における出来事の繰り返しにより……「Eさんが、愚痴を言うだろう」と思っていたから、「Eさんが愚痴を言ったのだ」と言われると、Dさんは、信心深い人なので、そう思ってしまう場合がある。
ようするに、「逆のことを思っていた」というケースだ。
深層心理で逆のことを思っていたから、逆のことが現実化したんだという言い方になる。
これだと、「そのまま」のことも「逆のこと」も、思ったから現実化したと言えるようになる。まあ、ペテン師の手口だ。
* * *
ちょっとだけ、「思い」ということにのべておこう。
「思い」という集合と、「思いではないもの」という集合をわけたとする。
そうなると、「思い」であれば、「思い」という集合に含まれるということになる。「あの思い」も「この思い」も、「思い」なのであれば、「思い」という集合に含まれるのである。
だから、『思いは現実化する』ということが正しいのであれば、あの思いは、現実化するけど、この思いは現実化しないということはないのである。
その言葉は、「思い」であれば、現実化するということを言っているのである。
だれかの「あの思い」は現実化するけど、ほかのだれかの「あの思い」は現実化しないということはないということだ。
* * *
実際に「不愉快なこと」が発生した場合、潜在意識でそう思ったということになってしまうのである。あるいは、深層心理でそう思ったということになってしまうのである。どうしてかというと、『思いは現実化する』からである。
しかし、この前提がまちがっているのである。思ったことは、思霊ではない理由で、思ったあと、現実化することもあるし、現実化しないこともあるのだ。……じつは、これが正しい。
ところが、思えば、思ったから『思霊』によって、現実化するというのが、人をだますためのカルト理論なのだ。『思霊』というのは、ぼくの造語なのだけど、一般的ではない。『思いの力』という言葉を使ってしまうと、言霊のように魔法の力をもつ『思霊』と、意思の力をあらわしている『思いの力』がごちゃごちゃになってしまうのである。
これも、トリックのひとつだ。『思いの力』という言葉を使うと、普通の「意思の力」と魔法のような「意思の力」をごちゃごちゃにすることができるのだ。人間は「思って行動する」ことができるので、思って行動すれば、結果をえられることがある。
それと、魔法のような「意思の力」は別物なのである。
人間が自分のからだを使って、物理的世界において実行できることと、なにかすごい魔法のような力によって実行されることはちがう。なにかすごい魔法のような力というのは、物理法則をこえたものであって、神の力なのだ。
言霊理論の場合は、言葉に、言霊が宿るということになっているのだけど、思霊理論の場合は、思っただけで、自分の気持ち?に思霊が宿るということになるのだ。……だから、思霊が、神のような力で、実行してくれるのだ。……だから、現実化するのだ。
こういう理論なんだよ。
『思いは現実化する』という考え方のなかには、「自分の潜在意識が宇宙意識に届いて、宇宙意識が(自分の思いを)実行してくれる」という考え方がある。
宇宙意識という言葉を使っていない場合でも、じつは、宇宙意識のような神秘的な力によって、「自分の思い」が実行されるという妄想的な思考がある。
人間の普通の意思的な行動によって、それが現実化されるということを言っている場合と、宇宙意識のような神秘的な力によって、それが現実化されるということを言っている場合があるのである。ようするに、両者を、ごちゃまぜにして語っているのである。
たとえば、漫画家になれた人がいたとする。その人が「漫画家になると思ったから、漫画家になれた」と言ったとしよう。
実際には、その人は、漫画家になると思っただけではなくて、実際に漫画を描いたのだ。だから、思っただけではない。漫画家にまだなっていない人がいたとする。
その人が「漫画家になる」と思えば、思っただけで、漫画家になれるかというと、そうではないのだ。
しかし、『思いは実現化する』という理論のなかでは、まさに、思っただけで、漫画家になれるということを語っている部分がある。
「思ったあと、努力すればいい」という言葉が出てくるのは、人間の意識的な行動と宇宙意識のような神秘的な力によってなされることが、ごっちゃごちゃになっているからだ。
両者が、最初からごちゃごちゃだから、理論的な矛盾がないように「見える」だけなのである。
* * *
思霊主義者は、すでに、漫画家である人の「漫画家になると思ったから、漫画家になれた」という言葉を利用して、普遍的なことを言ってしまっているのである。しかし、すでに漫画家である人の内部環境も、外部環境も無視してしまっている。
がん無視なのである。
たとえば、絵がうまいというのは、その人の才能だ。構想力があるというのも、その人の才能だ。才能はすべて、内部環境に含まれる。
どうして、才能を無視してしまうのか? おかしいだろ。
才能を無視して「思っただけで漫画家になれる」と思霊主義者は言うのである。実際になれなかったら、「思い方がへたくそだった」とか「深層心理では漫画家になりたくないと思っていた」ということを言うのである。
しかし、これは、自己矛盾なのである。
どれだけ思い方がへたくそでも、「漫画家になる」と思ったら、思っただけで漫画家になれるのである。「深層心理では漫画家になりたくなかった」という決めつけは、実際に、漫画家になれていないということからくる、いちゃもんなのである。でっちあげなのである。
まあ、仮に、深層心理では、漫画家になりたくないと思っていたとしても、「漫画家になる」と一度でも思ったら、漫画家になれるのである。どうしてかというと、『思いは現実化する』からだ。「深層心理で、反対のことを思っていた」ということが、正しいのかどうかは別にして、『思いは現実化する』のだから思ったら、現実化してしまうのだ。
いちゃもんとペテンだ。いかさま理論なのである。
最初から、いかさま理論なのである。
* * *
漫画家としての能力は、まったく関係がないのである。最初から、「内部環境」を無視している。才能なんて、まったく関係がないのである。「思うかどうか」が重要だから。
けど、漫画家になれない場合は、「思い方がへたくそだった」ということになる。漫画を描く能力に問題があるのではなくて、「漫画家になる」と思ったときの「思い方」に問題があるのだ。
こんなの、おかしいと思わないのか?
うまく思うことができる人は、思いを現実化できるけど、うまく思うことができない人は、思いを現実化できない。うまく思うことができない人だって、思っているのだ。『思いは現実化する』なら、思っただけで、現実化しているはずだ。
「思い方」が問題なることは、一切合切、ないのである。
最初に「環境」を無視してしまったから、カルト的な倒錯理論が正しいと思ってしまうのである。信じている人たちよ。おまえら、ほんとうに、幻術に惑わされているぞ。
* * *
うーーん。「思っただけ」で夢がかなうのだから、お手軽な理論なのだけど、環境が悪い人は、思い方がへたくそだということになってしまうのである。
環境が悪い人は、環境が悪いから、うまくいかないのだけど、思い方がへたくそだから、うまくいかないのだと言われることになる。
もちろん、環境は、無視なのである。
だれがだれにという問題がある。
けど、社会にこういう考え方がはびこっているのは、けっして、いいことではない。「だまし」があるからだ。洗脳されて「思いが現実化する」「思えば、思ったことが現実化する」と思っているのである。
そうなると、じつは、悪い支配者にとって、いい状態ができあがるのである。
悪い支配者が、悪いことを実行しようとしたとき、『思霊』を信じている人たちは、簡単に術中にはまって、悪い支配者側に立って、悪い支配者の協力をしてしまうのだ。
「行動の選択肢」があった場合、悪い支配者が、徳をするように、その人たちは行動してしまうのである。洗脳された人たちは、悪い計画をおしすすめる方向に動いてしまう。
* * *
「よいことを思うと、よいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こる」という考え方も、悪い支配者という「参加者」のことを考えると、いい考え方とは言えない。
洗脳された人たちにとってみれば「どこが悪いんだ」と思うだろう。
「よいことを思うと、よいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こるという考え方が、正しいと思うだろう。ところが、悪い支配者という目に見えない参加者のことを考えると、これは、いいことじゃない。
俺はもう、あのときに、さんざん思い知ったからね。それについても、「いまはなきTwitter」に、すでに書いたことだけど、そのうちまた、書こうと思っている。