みんな、ヘビメタの負荷がわかっていない。ヘビメタの負荷が一キロぐらいだと思っているのだ……。重さでたとえるなら一キロぐらいだと思っている。
で、自分の負荷は、一・四キロぐらいだと思っている。だから、俺だって、重いと言う。俺だって動きにくいという。けど、ヘビメタ騒音の負荷は二〇〇キロぐらいある。重さでたとえるならの話だ。
だから、家に帰って、必死になって「やめてくれ」「このままだと、明日、学校でこまる」ということを言ったって、きちがい兄貴が、きちがいだから、まったくやめない。きちがい兄貴は、負荷がゼロだと思っているやつだ。
どれだけやったって、俺に影響がないのである。
けど、きちがいでなければ、あんな音で鳴らさない。きちがいでなければ、弟がこまるということがわかる。どれだけ、説明をされても、弟がこまるということがわからない。
自分の「よその家では絶対に鳴らせないような」でかい騒音で、弟がこまっているということが、わからない。どれだけ弟が説明したって、わからない。
これ、頭がぶっ飛んでいるのである。悪いけど、普通の人の家にいる親兄弟(家族)なら、絶対にわかることなんだよ。
けど、自分がやりたいから、わからなくなってまう。なにを言われたって、自分が文句を言われたということしかわからない状態になっている。
そして、自分が文句を言われれば、内容に関係なく、憤慨するのである。なんだろうが、自分の意地を押し通そうとするのである。ゆずる気なんて、まったくないのである。
まったく問題がないことをやって、文句を言われているような感じになってしまう。問題があることをやっているのに、それがわからない。
普通の人が、うるさくする場合は、うるさくしているということ自体は、ある程度、わかっている。きちがい兄貴は、きちがいだからまったくわかっていない。
きちがい兄貴の場合、自分が思った通りにやりたいという気持が強いので、ほかのことは、無意識的なレベルで無視してしまう。無意識的なレベルで無視したということは、意識にのぼらないので、無意識的なレベルで無視したということも、頑固にわからない状態になっている。
この態度は、相手にとってムカつくものなのである。つまり、ぼくにとって、兄貴のこの「つきぬけた」態度はむかつくものなのである。
こんなのない。道理がとおっていない。
ところが、精神世界の人は、「受け止め方をかえればいい」とか「相手をかえることはできないので、自分がかわればいい」と言うのだ。そのくせ、「言霊理論はまちがっている」ということを言われたら、受け止め方をかえず、自分をかえようとせず、憤慨してしまう。
兄貴よりは、憤慨していないけど、それでも、憤慨してしまう。エイリさんに対して、負の感情が生まれるのである。
それで、精神世界だなんだと言っている。これ、言霊理論がまちがっているということを、エイリが言ったということに関して、相当に、ネガティブな感情を抱くのである。
「なんだこんにゃろう」「言ったことが現実化する」「これが正しい」「へんなことを言うな」と思って、エイリのことがきらいになるのである。意地悪なことができるなら、意地悪なことをしてやろうと思うのである。嫌味が言える機会があったら、嫌味を言ってやろうと思うようになるのである。
まあ、精神世界の人のことは、ちょっと棚の上に置いておこう。
あーー。けど、精神世界の人の態度と、普通の人の態度は、似ている。おなじようなものなのである。
* * *
ほんとうに、俺の人生はなんなんだ。きちがい兄貴が、きちがい的な基準で、毎日毎日、きちがい騒音を鳴らしたので、俺が、こまった。ほかの人は、きちがい的な基準がわかっていないし、実際に、きちがい的な基準で鳴らされ続け丈ではないので、軽いことだと考えてしまう。
けど、重いことなのだ。どうすることもできないことなのだ。
対処しようとしてがんばると、それが、ストレスになって様々な症状をうみだしてしまう。症状に対する理解なんて、ほかの人にはないんだよ。
* * *
精神世界の人は、「道理」を無視して、「むりなこと」を言う。
けど、「むりなことを言っているつもりがない」し、「むりなことだとは思っていない」のである。こんなの、きちがい家族による騒音生活をしたことがないから、そう思っているだけなのに、「自分ならできる」と思っているのだ。
こっちが「むりなことを言うな」と言っても、あっちは「むりじゃない」と言って、これまたきちがい理論をふりまわすのだ。やられてないからわかっていないだけ……。自分が一倍速で経験したら、むりだということがわかることなんだよ。
けど、そいつらのまわりには、ドハズレな基準をもったきちがい的な騒音にこだわる人……こだわってこだわって騒音を鳴らしづける家族がいないから、わからないんだよ。
「道理」を無視しているのは、精神世界の人たちなんだよ。
* * *
しかし、俺の人生は、いったい、なんだったんだ。あのひどさがわかっていないやつらに、ひどいことを言われる。まあ、それもあるけど、やられた時点でおしまいだったんだな。どれだけ、「鳴らすな」と言っても、鳴らしていた。鳴らされている時間が長かった。鳴らされている時間の影響というのは、鳴らされていない時間にまでおよぶ。けど、ほかの人は、これがわからない。鳴らされているときだけ、つらいのだと思ってしまう。鳴らされているときの影響は、鳴らされていないときは、ないと思ってしまう。あるいは、無視できるほど小さいものだと思ってしまう。「そんなのは気の持ちようだ」と思ってしまう。ところが、ちがうんだよ。実際に、あの生活を経験したことがない人は「そんなのは気の持ちようだ」と思ってしまう。そう、決めつけてしまう。「自分なら、お兄さんをしずかさせさることができた。そんなのは、自己責任だ」と思ってしまう。 そんなのは気の持ちようだ」と思っている人は、実際やられたことがないので、『影響』を過小評価している。けど、兄貴が、「でかい音で鳴らしている」ということを認めないように、「影響を過小評価している」ということを、彼らは、認めないのだ。過小評価……している。これは、まちがいがない。こっちから見れば、一目瞭然で、わかりきったことなのだけど、あいつらにしてみれば「そんなのは関係がない」と思えることなんだよ。