ごくごく、簡単に言っておくと、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言うことが、決まっているんだよ。
最初に、妄想的な前提を持ち出したときから、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言うことが、決まっている。
抽象世界で、法則化してしまうのだけど、その法則は、すべての条件において成り立つということになっている。
けど、ほんとうは、すべての条件において成り立つわけではない。
けど、妄想的な前提を信じている人は、「条件」を無視してしまう。
「条件を考慮すること」を、放棄してしまう。完全に放棄してしまう。だから、「べき論」になるし「こうなるはずだ」という話になってしまう。
その場合、一〇〇%詐欺は常に成り立っているので、言っている本人が、言っていることについてよく理解していないということになる。これが問題なんだけど、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言い放つほうは、一〇〇%詐欺のことなんて気にしない。
「Xをすれば、Yになる場合がある」ということと「Xをすれば、一〇〇%の確率で、Yになる」ということは、意味的に等価ではない。
しかし、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言い放つほうの頭のなかでは、両者の区別がなされていない。
ようするに、「おなじこと」として認識されているのである。だから、ときには「Xをすれば、Yになる場合がある」という意味で「XをすればYになる」と言ったり、ときには、「Xをすれば、Yになる場合がある」という意味で「XをすればYになる」と言ったりすることになる。
両方とも、「XをすればYになる」と言うことになるので、本人は、自分がいま、どっちの意味で「XをすればYになる」と言っているかどうか、わからないまま、話をすすめてしまう。洗脳された人にとってみれば「XをすればYになる」ということは、どんな場合でも、正しいことなので、「これが正しい」と言いはる。
基本的に言って、こういうところで、まちがっているのだけど、洗脳された本人が、まちがいに気がつくことはない。
彼ら、彼女らの頭のなかでは……「XをすればYになる」ということは、絶対に正しいことだ……ということに、なっている。洗脳された人の頭のなかではそうなっている。
そうなると、例外を認めないということになる。こういう条件だと、Xをしても、Yにならないということを、認めないという態度になる。
けど、これも、本人がわかっていないのだ。
本人は……「Xをすれば、Yになる場合がある」ということと「Xをすれば、一〇〇%の確率で、Yになる」ということの、区別ができない。区別をしていない。教祖側の人も、区別ができない人で、区別をしない人だ。
だから、まちがいが伝染していくのである。
どうして、「XをすればYになる」という単純な言い方が好まれるかというと、願いが叶いそうな気がするからだ。
ところが、「XをすればYになる」というのは、環境を無視した話だから、基本的には、願いがかなわないのだ。願いがかなわない場合も、やった人のやり方が悪いということになるので、「XをすればYになる」と言っているほうは、ダメージをうけない。
洗脳された人は、「やり方が悪い」と言うとき、正しいことを言っているつもりしかない。やった人のやり方が悪いと言うことで、相手に負のストロークをあたえているつもりは、まったくない。
そして、「やり方が悪い」ということになると、「いいやり方を教えてやる」ということになって、商売がはかどるのである。おカネのやり取りがない場合も、「XをすればYになる」と言ったほうの優位性は、かわらず、いい気持ちで、相手をディスり、自分はすごいのだという優越感を感じるようになる。
実際に、「いいやり方だ」と思っているので、むしろ、「いいことをしている」という、実感がある場合が、ほとんどなのだ。
けど、悪いことをしている。
まあ、「悪いことをしている」と言ってくる相手には……人間というものは……敵意がしょうじる。
だから、洗脳された人は、どこまでも、この道を突き進むことになる。
うまく、できている。