自己責任論者であって、なおかつ、言霊主義者である人は、言霊理論を批判されると、腹をたててしまうのである。
ようするに、言霊理論を批判したやつが悪いと思っているのである。
自分が立腹した原因は、言霊理論を批判したやつが言霊理論を批判したからだと思っているのである。自分のことなら、この様(ざま)だ。
自己責任論じゃなら、すべては自己責任と考えるので、「言霊理論を批判された」ということも自己責任だと考えるはずだ。自分の身の上に起きたことは、すべて、自分の責任なのだから、当然、そうなる。
なんで、言霊理論を批判されたときは、エイリのせいで腹がたったと思うのだ?
エイリの発言は、腹がたつと思うのだ?
腹をたてる必要なんてないんだよ。
すべてが、自己責任だから、「エイリのせいだ」と思わなくていいんだよ。
* * *
たとえば、自分が信じていることを否定されて腹がたったとする。事前に「自分が信じていることを否定されて腹がたつ」と事前に言わなかったとする。
言霊は、関係がないのである。
「自分が信じていることを否定されたら腹がたつだろ」と思うかもしれないけど、言霊の力によって「腹がたったわけではない」ということは、認識しておいたほうがいい。
うれしいことが起こったときもおなじだ。「これこれこういうことで、自分はうれしいと感じる」と、事前に言わなかったとする。
けど、一倍速で体験しているプロセスのなかで、自然に「うれしい」と感じることがあったのだ。これは、言霊の力によって、引き起こされた感情ではないのである。
「うれしいうれしい」と事前に言ったから、うれしいと感じたわけではない。プロセスのなかで、うれしいと感じたのである。
「あのときは、うれしかったなぁ」と思ったとする。思ったときに、ちょっとだけ「うれしくなった」とする。このうれしさは、うれしかったことを思い出してうれしく感じただけだ。
事前に、うれしいと感じた出来事がほんとうに、あったのだ。
言霊理論が否定されたあと、「じつは、それは、うれしいことなのだ」と受け止め方をかえて、「自分が信じていたことを否定されたときのこと」を思い出して、「うれしいうれしい」と言っても、うれしくならないだろう。
「うれしいうれしい」と言って、うれしくなる場合は、実際にうれしいことを経験したということが、「さき」なのである。
うれしいことを、実際に(過去において)経験したので、そのときのことを思い出してうれしく感じただけなのである。なにも経験がなかった場合、なにがうれしいことなのかわからないから、どれだけ、「うれしいうれしい」と言っても、うれしくならないのである。
何度も言うけど、「経験」のほうがさきだ。
経験がさきにあって、そのあと、「うれしい」という言葉と、その感情が、むすびつくということが起こり、その、さらにあとに「うれしかったこと」を思い出すと、ちょっとは「うれしい気分になる」ということが発生するのである。
思い出したときのうれしさというのは、体験しているときのうれしさとはちがうのである。体験しているときのうれしさのほうが、たぶん、うれしさの程度において高いのである。
思い出しているときに感じるうれしさは、ほんとうに体験しているときのうれしさよりも、たぶん、うれしさの程度において、低いのである。
「うれしい」と言って呼び起こされる「うれしさ」が、ほんとうに「うれしさ」を感じているときのうれしさとおなじであるはずがないのである。体験しているときのうれしさのほうが、「うえ」なのである。
平和な状態で「あのときはうれしかったなぁ」と思い出しているときは、うれしさのほかに安心感を感じるかもしれない。
もし、かりに、その記憶に関係があるだれかが、死んだ状態で「あのときはうれしかったなぁ」と思い出しているときは、うれしさのほかに、さみしさを感じるかもしれない。
たとえば、だれかとの、うれしい体験があったとする。けど、そのだれかが、死んでしまったとする。そういう場合は、うれしいことを思い出しても、さみしさを感じるかもしれないのである。
これは、認知とメタ認知が関係している。
文脈は大切なのである。
文脈を考えずにただ単に、言ったことに反応すると考えているようではだめだ。
特に悲しいこともなく、特にうれしいこともない、中立的な状態を考えて、その中立的な状態のときは、「うれしいうれしい」と言えば、うれしくなったような気分がするということは、あるかもしれないけど、つねに、うれしくなったような気分がするかどうかはわからない。
ようするに、「うれしいうれしい」と、中立的な状態で言ったにもかかわらず、ぜんぜん、うれしくならず、むしろ、さめた気分になってしまう場合だってあるのだ。
ともかく、直前の出来事を無視して、「うれしいうれしい」と言えば、直前の出来事に関係なく、うれしくなるというのは、どう考えてもおかしいのである。
ぼくに、言霊理論を否定された言霊主義者たちは、ぼくに、言霊理論を否定された直後に、「うれしい、うれしい」と言っても、うれしく感じないと思う。
ぼくの経験の範囲で言うと、みんな腹をたてていたのである。
腹をたてているときに「うれしいうれしい」と言うと「ほんとうにうれしくなる」のかどうか、言霊主義者は自分で、実験してみればいいよ。
それから、言霊主義者は「過去は関係がない」と思っているけど、「うれしかったこと」を思い出すというのは、過去が関係している行為だということに、注意を向けるべきだ。
言霊主義者は、相手の過去を、ごく自然に、否定してしまう。
相手には「理由」があるのに、相手の理由は無視してしまうのである。
「言霊理論を否定されたから」腹がたったとする。
これだって、過去の話なんだよ。過去の出来事なんだよ。
言霊理論を否定されたあと、腹がたっているんだよ。
腹がたった理由は、言霊理論を否定されたからなんだよ。
言霊理論を否定される前に、腹がたっていない状態で「腹がたつ」と言ったから、腹がたつという言葉に宿っている、言霊の力によって、腹がたったわけじゃないんだ。
あるいは、言霊理論を否定される前に、腹がたっていない状態で「腹がたつ」と言ったから、言霊の力が、ぼくに働きかけて……その人の前で……言霊理論を否定するということを、ぼくにさせたのではないのだよ。
ぼくにはぼくなりの、理屈と理論があるんだよ。言霊理論はまちがっていると感じる出来事があったんだよ。
ぼくに言われて、腹をたてた言霊主義者が、ぼくに言われる前に、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」と言ったから、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」という言葉に宿っている言霊の力によって、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」ということが、現実化したわけじゃないんだよ。