たとえば、ポーカーにおいて四のワンペアは、けっこう、弱い役だ。
けど、三のワンペア、二のワンペア、ブタには、勝てる。だから、勝つ場合もけっこうある。負ける場合のほうが多いのだけど、勝つ場合もそれなりにある。
その場合、四のワンペアの持ち主が「勝つ」と言ったとしよう。そうしたら、勝ったとする。もちろん、勝負の前に「勝つ」と言ったことは、関係がない。本人の役と、その場にいた人の役で勝敗が決まるので、四のワンペアの持ち主が「勝つ」と言ったことは、じつは、勝敗には関係がない。
もちろん、これは、駆け引きの部分をぬかした話をしているわけだから、駆け引きは関係がない。まあ、実際には、手札を一度はかえられるわけだし、駆け引きだってある。
ブタだって、ずっとレイズして、相手がフォールド(ドロップ)したら、それで勝ちだ。
けど、「生まれたときに配られたカードで勝負するしかない」と言うときの「生まれたときに配られたカード」について、言及しているわけ。
まあ、「やりようはある」と考えて、どの方向でがんばるかということを決めることができるということについては、別の話として取り上げることにする。
なので、この話のなかでは、生まれたときに、一度だけカードが配られて、その役が一生かわらないという前提で話をすすめる。
問題なのは、言霊主義だと、「勝つ」と言ったから勝てたと思ってしまうことだ。こういうことが一度でもあると、信心深い人は「言霊理論は正しい」「言霊は絶対だ」と思ってしまう。
ほんとうは、勝つと言ったあと、負けることもあるのに、それは、ガン無視なので、いつも勝っているように誤解をしてしまうのだ。
「勝つことができる」と言ったあと、勝った場合も「できると言えばできる」ということになる。「できると言えばできるというのは、正しい」ということになる。
「勝つ」と思って、勝負をしたら勝ったとする。そうしたら、『思いは現実化する』と思ってしまう。『現実化しなかった思い』のことは、わすれてしまう。
そうすると、「勝つと言えば勝つ」「できると言えばできる」「思いは現実化する」と、三のワンペアをもっている人、二のワンペアをもっている人、役をもっていない人には言えるということになる。
正しいことを言っているつもりになっているのである。
「言霊は絶対だ」「言霊の法則は正しい」「思いは現実化する」……本気で信じて、ドヤ顔で、説教することができるようになるのだ。
言っておくけど、四のワンペアは、弱い役だ。上中下の三段階を考えるなら、下に属する役なのだ。問題なのは、下の人も、精神世界セットについて言及することができるということだ。
精神世界セットが正しいと思うことができるということだ。
けど、精神世界の人たちが、一倍速で経験していることについては、精神世界で言われることセットとは、まったくちがった判断をしているのである。
そして、もし、精神世界で言われているとが正しいなら「四のワンペアは、四のワンペア以外のすべての役に勝つ」と言えば、「四のワンペアは、四のワンペア以外のすべての役に勝つ」ことになるのである。
言えば言っただけで、ルールなんて、いくらでも、かえることができるのである。
ところが、そうしない。「言ったところで、ルールはかわらない」と思っているから、言わないのだ。
ようするに、「言えば、言ったことが現実化する」とは思っていないのである。「言霊には、ルールを書き換えるような力はない」と思っているのである。言ったところで、ルールがわかるわけはないから、ルールをかえようとして、四のワンペアが、ほかの役とブタに勝つと言わないのだ。
言った通りになるなら、言えばいい。思っただけで、思った通りになるなら、思えばいい。それで、解決だ。
努力なんてしなくても、ほんとうは、思っただけで、全部の勝負に勝つことができるのだから、思えばいいのである。ところが、思わない。
思うことで、ルールをかえようとしない。思うことでルールがかわるのに、ルールをかえようとしない。「思ったところで、ルールなんてかわらない」と思っているから、「こういうふうにルールをかえよう」と思わないのだ。
そのくせ、『思いは現実化する』という考えたを放棄することもできない。
思霊主義者も、『思いは現実する』ということの意味が、『すべての思いは、一〇〇%の確率で現実化する』ということになるということに、気がつかない。
『思えば、思ったことが現実化する』というのは、『思えば、思ったことが現実化することもある』という意味ではなくて、『思えば、すべての思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する』という意味になるのだ。
ところが、「思えば、思ったことが現実化することもある」ということと「思えば、すべての思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ことを、区別しないのだ。区別できない。常に、あいまいなのである。
本人が、区別をしていないので、都合よく、まちがうのである。
だから、ドヤ顔で「思えば、思ったことが現実化する」「思いは現実化する」と言うことができるのだ。
ともかく、現実的な場面では、思霊的な解決方法を思いつかないのである。
夢や希望がかかわっている場合は、「いつかかなうはずだ」というような「いつかかなう系」のことが言われるのだけど、「いつかかなう」というのは、かなわないままになる可能性も含んでいる。
ようするに、「いつかかなう」と思いながら、死んでしまった場合、けっきょく、かなわないまま死んでしまったということになる。本人が死んだあとも、「いつかかなう」かもしれないことに関しては、「いつかかなうかもしれない」と思うことができるのである。
本人の夢が、本人の行為に限定されたものであれば、本人が死んだらおしまいだけど、もうちょっと抽象的なことだと、本人の行為に限定されないので、本人が死んでも「いつかかなうかもしれない」ということは、温存されるのである。
可能性はある。
「思いは現実化する」という理論が正しいなら、「瞬間移動できる」と思えば、瞬間移動できるようになるのだけど、「瞬間移動できる」と思っても、瞬間移動できるようにならないとする。
けど、「いつか、人類は瞬間移動できる(ようになる)」と思えば、その(思った人が)死んだあとも、可能性を温存することができるのだ。温存できる言い方になっている。「いつかかなう系」の言い方は、可能性を温存できる言い方なのだ。
けど、それは、すぐにはかなわないと、本人が思っているということを、暗示しているのだ。「いつか、思いが現実化する」ではなくて「一秒以内に思いが現実化する」ということにしてしまうと、一秒ジャストを含まず、一秒を経過したあとには、思いが現実化しなかったことがあきらかになってしまう。
それをさけるために「いつか」という言葉が使われる。
しかし、「思えば、思ったことが現実化する」ということが正しいなら、時間制限はないということになる。一秒以内に、これこれこういうことが現実化すると思えば、一秒以内にこれこれこういうことが現実化するのだ。
思ったことが現実化するのだから、一秒以内に現実化すると思ったことは、一秒以内に現実化するのである。
なにも、「いつかかなうだろう」と待っている必要はない。
その人……「これこうなる」と思った人が、じつは、「これこれこうならないだろう」と思っているから「いつかかなう系」の表現になってしまうのである。
「一時間以内に、自分は瞬間移動できるようになる」と思ったって、「自分は一時間以内に、瞬間移動ができるようにはならないだろう」とほんとうは、思っているから、「一時間以内に、自分は瞬間移動できるようになる」というような時間制限がある表現をさけるのである。
これ自体が、思いの力を、信用していないということを意味しているのである。
ところが、「思ったことが現実化する」とドヤ顔で(人には)言うのである。
この場合、「思ったことが現実化する場合だってある」という意味で「思ったことが現実化する」と言っているのだけど、「思ったことが現実化する」という言葉の意味は「すべての思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということだから、本人が、まちがった意味で、「思いは現実化する」と言っているのである。