精神世界の教祖は、単純な例をあげて、法則性について説明をするけど、法則性なんて成り立っていないことのほうが多い。いつも、そうなることではないのだ。しかも、例が架空世界の例になったりする場合もある。ここらへん、注意して考えないとだめだよ。
一例をあげて、法則性について説明したとする。そうすると、すべての場合において、その法則が成り立つような印象をあたえるけど、ちがう。
Aという事柄の集合と、非Aという事柄の集合があったとする。Aという事柄の集合の場合は、ある法則(アルファ)が成り立つとする。
けど、非Aという事柄の集合の場合は、その法則(アルファ)は成り立たないとする。
けど、アルファという法則が、非Aいう事柄の集合にも成り立つような印象を与えてしまうのだ。
たとえば、アルファという法則が「XをすればYになる」というような言葉で表現される場合、Xのなかに、Aという集合しか入らないのであれば、非・Aの集合においては、当然、「XをすればYになる」というようなことは言えないということになる。
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人間に関することを、あたかも、物理法則のように言ってしまうことが、はやっているのだけど、これは、よくない。
例からの「飛躍」があるのである。すべての例について言及することができないので、例というのは、通常、いくつか挙げるだけになる。
その場合、物理法則なら、例として挙がった例、以外の例にも、物理法則が成り立っているのである。
しかし、人間に関することだと、そもそも、例ですら、不適切な例である場合がある。
そして、例として挙がった例、以外の例については、まったく成り立たない場合がある。
そして、これを言っちゃーーおしまいなのだけど、ともかく、言葉のなかに出てくる項目の意味を一意に決められないのである。
人間に関する法則性があるような文のなかに出てくる「項目」は、物理法則のなかに出てくる「項目」とは、本質的にちがうのである。
しかし、人間に関する法則について述べられる文も、物理法則について述べられる文も、区別されないのである。
信者の頭のなかでも、教祖の頭のなかでも、両者の区別ができていない。
抽象的に真似した言い方になっているので、区別がついていない。
物理的な法則について述べる文と人間に関する法則について述べる文が似ているので、「おなじようなものだ」と理解してしまっているのである。
しかし、ぜんぜんちがうものなのだ。