2025年9月30日火曜日

●「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかという言葉■社会※2025/09/30 1:20

たとえば、外部環境の悪さを、一から一〇までのレベルであらわしたとする。一が一番楽で、一〇が一番苦しいとする。

レベル一の人は、外部環境が一番いいわけだけど、それでも、「苦労」がないわけではない。外部環境が一番いい一段階い人でも、「苦労がある」ということだ。これは、重要だ。

ところで、世の中には便利な言葉がある。「自分だって苦労した」という言葉だ。この言葉を使えば、苦労を、同レベル化できるのである。

その場合、段階一の人がレベル一〇の人に「自分だって苦労した」というと、レベル一の人は、レベル一〇の人とおなじレベルの苦労をしたということになってしまうのである。

そして、いまは、段階を客観的な数値でのべているけど、実際には、レベルを表す客観的な数値なんてない。これは、言ってみれば、神様視点で、レベルを、かりそめに、決定しているだけだ。思考実験だ。

実際には、段階わけなんてない。客観的な指標はない。

そして、個人が自分で「このくらいの苦労をした」と自己申告すると、「このくらいの苦労をした」ということを言っているということになるのである。「このくらいの苦労をした」ということになるわけではなくて、「このくらいの苦労をした」と(その個人が)言っているということになる。

たとえば、ほんとうは神様視点で一レベルの苦労しかしていないのに、本人が「一〇レベルの苦労をした」と言えば、本人が「一〇レベルの苦労をした」と言っているということになる。

で、その個人の発言を、ほかの人がどう受け取るかというのも、あいまいなのである。特に、公式の基準があるわけではないのである。

だから、苦労レベルの自己申告には、つねに、相対評価が成り立っていて、基準もあいまいだということを覚えておこう。

そういう、相対性が成り立っているのだけど、それでも、神様視点で見ると、やはり、苦労の程度に差があるということが成り立っていると、仮に前提して話をすすめる。

問題なのは、「自分だって苦労した」という言葉のあとに、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉が続くことなんだよ。

たしかに、視点のちがいの問題がある。

客観的な指標がないという問題がある。

しかし、この世には、あきらかに、外部環境の差が存在している。

もともと、外部環境がよくて、苦労の度合いがレベル一の人が、苦労の度合いがレベル一〇の人に向かって 「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉を放つのは、傲慢であると(わたしには)思えるのである。

「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかという言葉は、「やり方が悪いんだ」とおなじように、相手のことをせめる言葉なのである。

もし、外部環境が悪くて、レベル一〇の苦労をしたら、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉を、ほかの人に言える立場にならなかったかもしれないのに、「自分だって苦労した」という言葉で、同レベル化して、言ってしまうのである。

「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉は、「やり方が悪い」「努力が足りない」というような攻め言葉とおなじ効果をもっているのである。

一連の流れがあるのである。

(1)「XをすればYになる」という疑似法則の提示(2)うまくいかない個体の発生(3)うまくいかない個体に「やり方が悪い」と言う人の発生(4)うまくいかない個体の反論(5)「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言う人の発生……というような「一連の流れ」がある。

XをすればYになるという疑似法則の提示するほうが、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言うわけだ。何度も言うけど、「XをすればYになる」という言葉のなかには、外部環境の差や内部環境の差が、一切合切存在しないのである。

けど、実際には、外部環境の差と内部環境の差がある。だから、うまくいかない個体が出てくることが決まっているのである。ほんとうは、「そんな法則はない」「そんな法則なんて成り立っていない」のだから、うまくいかない個体が出てくるのは、必然なのである。

しかし、うまくいかない個体が「内部環境」や「外部環境」について、言及すると……「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という反論をすることになっているのである。「XをすればYになる」という疑似法則の提示した側が、そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言うことになっているのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。