たとえば、外部環境の悪さを、一から一〇までのレベルであらわしたとする。一が一番楽で、一〇が一番苦しいとする。
レベル一の人は、外部環境が一番いいわけだけど、それでも、「苦労」がないわけではない。外部環境が一番いい一段階い人でも、「苦労がある」ということだ。これは、重要だ。
ところで、世の中には便利な言葉がある。「自分だって苦労した」という言葉だ。この言葉を使えば、苦労を、同レベル化できるのである。
その場合、段階一の人がレベル一〇の人に「自分だって苦労した」というと、レベル一の人は、レベル一〇の人とおなじレベルの苦労をしたということになってしまうのである。
そして、いまは、段階を客観的な数値でのべているけど、実際には、レベルを表す客観的な数値なんてない。これは、言ってみれば、神様視点で、レベルを、かりそめに、決定しているだけだ。思考実験だ。
実際には、段階わけなんてない。客観的な指標はない。
そして、個人が自分で「このくらいの苦労をした」と自己申告すると、「このくらいの苦労をした」ということを言っているということになるのである。「このくらいの苦労をした」ということになるわけではなくて、「このくらいの苦労をした」と(その個人が)言っているということになる。
たとえば、ほんとうは神様視点で一レベルの苦労しかしていないのに、本人が「一〇レベルの苦労をした」と言えば、本人が「一〇レベルの苦労をした」と言っているということになる。
で、その個人の発言を、ほかの人がどう受け取るかというのも、あいまいなのである。特に、公式の基準があるわけではないのである。
だから、苦労レベルの自己申告には、つねに、相対評価が成り立っていて、基準もあいまいだということを覚えておこう。
そういう、相対性が成り立っているのだけど、それでも、神様視点で見ると、やはり、苦労の程度に差があるということが成り立っていると、仮に前提して話をすすめる。
問題なのは、「自分だって苦労した」という言葉のあとに、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉が続くことなんだよ。
たしかに、視点のちがいの問題がある。
客観的な指標がないという問題がある。
しかし、この世には、あきらかに、外部環境の差が存在している。
もともと、外部環境がよくて、苦労の度合いがレベル一の人が、苦労の度合いがレベル一〇の人に向かって 「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉を放つのは、傲慢であると(わたしには)思えるのである。
「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかという言葉は、「やり方が悪いんだ」とおなじように、相手のことをせめる言葉なのである。
もし、外部環境が悪くて、レベル一〇の苦労をしたら、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉を、ほかの人に言える立場にならなかったかもしれないのに、「自分だって苦労した」という言葉で、同レベル化して、言ってしまうのである。
「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉は、「やり方が悪い」「努力が足りない」というような攻め言葉とおなじ効果をもっているのである。
一連の流れがあるのである。
(1)「XをすればYになる」という疑似法則の提示(2)うまくいかない個体の発生(3)うまくいかない個体に「やり方が悪い」と言う人の発生(4)うまくいかない個体の反論(5)「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言う人の発生……というような「一連の流れ」がある。
XをすればYになるという疑似法則の提示するほうが、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言うわけだ。何度も言うけど、「XをすればYになる」という言葉のなかには、外部環境の差や内部環境の差が、一切合切存在しないのである。
けど、実際には、外部環境の差と内部環境の差がある。だから、うまくいかない個体が出てくることが決まっているのである。ほんとうは、「そんな法則はない」「そんな法則なんて成り立っていない」のだから、うまくいかない個体が出てくるのは、必然なのである。
しかし、うまくいかない個体が「内部環境」や「外部環境」について、言及すると……「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という反論をすることになっているのである。「XをすればYになる」という疑似法則の提示した側が、そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言うことになっているのである。