「自分の脳をだませばいい」という言い方がある。たとえば、やりたくないことがあったとする。
どうしてやりたくないかというと、たいへんだからだ。
人間の脳は、たいへんだと思うことは、やりたくないと思ってしまう傾向がある。
だから、自分の脳をだまして、「ちょっとだけ」やるということにすればいいというわけだ。
ようするに、全部やろうと思ってしまうから、たいへんだと思ってしまうわけで、ほんのちょっとだけやればいいと思えば、行動することができる。
いったん動けば、なんとか、やっていけるというものだ。自分の脳をだます、自分の脳を想定して言っている。自分の脳を、自分の脳がだますのである。自分の脳をだます脳が、自分の脳の一部たということになっているので、一部の脳が、全体の脳をだますということになる。
まあ、これ、比喩的な表現なんだよね。
まあ、方法としては、「五分だけ動く方法」とか「ここだけやる方法」が推奨されるわけ。けど、長期ヘビメタ騒音で脳が焼かれている場合は、五分だけ動くにしろ、ここだけやるにしろ、ダメなのだ。ダメなものはダメなのだ。
だから、長期騒音を浴びて、それだけで、脳が疲れ切っている場合は、「自分の脳をだます方法」は使えない。
だから、まあ、長期ヘビメタ騒音で脳みそが疲れ切っている状態ではない人向けの「具体的な解決策」ということになる。長期ヘビメタ騒音で脳みそが焼かれている人だけではなくて、普通の状態ではない状態の人は、ダメなのだ。
この「自分の脳をだます方法」というのは、普通の状態ではない状態の人には、向かない。
そうなると、「専門家に相談しろ」「薬を飲め」ということになるのだけど、これも、実は問題なのだ。「薬漬けグタグタ状態」になりがちだからだ。
けっきょく、きちがい的な意地で、きちがい兄貴が、ヘビメタを「ありえない音で」鳴らし続けた場合は、そういう、方法じゃだめだということになる。
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ほんとうは、部分には分けられないのだけど、比喩的な説明をしたいと思う。
基本的には、「全体的な脳」と「全体的な脳をだます脳」という部分に分かれているような感じがするけど、実際には、メタ認知が成り立っている。
ようするに、ある目的を実行するために、自分の脳をだませばいいのだと思って、だまそうとしている自分を俯瞰的に認知している自分がいるということになる。
だから、「だまされる脳」「だます脳」「メタ認知の脳」ということになるのだけど、そもそも、比喩なのである。
わけても、しかたがない。
「メタ認知の脳」まで含めて「自分の脳だ」ということになる。
「自分の脳をだますというのは、比喩的にそういうところを想像してみればいいんじゃないかなぁーー」という話で、脳の実態とはちがうということだ。
「脳科学」というような言葉があると、あたかも、実体としての脳がそのような脳であるかのような誤解をうむわけだけど、ちがう。
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というわけで、ほんとうにひどいことをやられて、脳が疲れ切っている人には、そういう方法は役に立たないわけだ。
けど、「だれにでも役に立つ」「どんな状態でも役に立つ」ということになっていると、軋轢が生じるのである。どうしてかというと、ほんとうは「だれにでも役立つわけではない」し、ほんとうは「どんな状態でも役に立つわげはない」からだ。
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しかし、役に立つ人もいる。ある程度、普通の状態なのであれば、「まずやってしまう方法」は、有効な方法だといえる。どうしてかというと、ゼロではないからだ。ほんのちょっとでも、やれば、ほんのちょっとだけ、進む。ゼロではない。
普通の状態なのであれば、ちょっとは進んだことに満足して、はずみがつくかもしれない。たとえ、ちょっとでも、「はかどった感じ」がするので、わりと有効な方法なのだ。しかし、「普通の状態なのであれば」という条件が付く。
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きちがい兄貴のきちがい騒音が殺人的なのは、「普通の状態」を二四時間、うばってしまうからだ。一年、三六五日中三六五日、つねに鳴らして「普通の状態」を十数年にわたって、うばい続けた。殺人的なことだ。
けど、ほかの人の「身の上」には起こらないことだから、ほかの人にはわからないのである。
だから、「普通の状態」で自分がやって、効果があると思ったことは、効果があると思うわけ。状態に関係なく、効果があると思うわけ。自分に効果があったから、エイリさんにも効果があるだろうと思うわけ。
そこで、ぼくが、「普通の状態じゃないから効果がない」「ヘビメタ騒音にたたられ続けたから、効果がない」ということを言うと……(相手は)へそをまげるわけ。
「エイリはネガティブなことばかり言うからダメなんだ」と思うわけ。けど、まず、その人にはきちがい家族がいないんだよ。そのきちがい家族が、ありえない音で、騒音を鳴らすことにこだわってことだわってこだわって、騒音を鳴らしたということが、その人の身に起こらなかったんだよ。
だから、知らないわけ。
「普通の状態」かどうかということは、その人にとって、関係がないことであるわけ。
「自分だってつかれる」「自分だってつかれているときはある」と思えば、ぼくが言っている「普通ではない状態」について誤解をすることができるわけ。
同程度の「つかれ」だと思うことができるわけ。
けど、実際には、きちがい家族による特殊な騒音というハンディがないわけ。けど、ないことしか経験してないのだから、あることについては、無視しがちになる。
きちがい兄貴がきちがい的な感覚で、よそのうちにおいては、絶対にありえないことをやってしまっているので、ぼくが誤解されるわけ。「普通の状態ではない暮らし」というのが、わかっていない人に、ぼくがそれを説明しても、説明された人は、よく理解しないわけ。
それが、決まっているんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、長期間にわたって鳴っていた騒音なのだけど、この、長期間ということの特異性も、ほかの人は、無視してしまうわけ。
ともかく、ほかの人は 「エイリはネガティブなことばかり言うからダメなんだ」と思って、ぼくのヘビメタ騒音生活について、否定するわけ。
ヘビメタ騒音生活によって、不可避的に生じてしまう状態について、理解をしないまま、「そんなのは関係がない」と否定してしまうわけ。
たとえば、「ちょっとだけやる方法は有効だ」「これは正しい」と言って、ぼくが言っていることを否定してしまうわけ。
つまり、きちがい兄貴が、俺の言っていることを無視して、ぜんぜんでかい音で鳴らしていないつもりで、きちがい的にでかい音で鳴らし続けると、ほかの人の状態と、ぼくの状態のあいだにちがいができるわけ。
この状態の差は、そのまま、認知の差になるわけ。
「状態の認知」の差になるわけ。普通の状態しか経験していない人は、普通の状態について考えてものを言うわけ。普通の状態で「これが有効だ」と思ったから、「これは有効だ」と思っているわけ。
けど、俺は、きちがいヘビメタ騒音によって、「普通の状態で暮らせなかった」のだよ。普通の状態ではないのだよ。
だから、「普通の状態ではない」ことを前提にしてものを言うと、普通の状態でものを考えている人から見ると「(エイリは)ネガティブだ」ということになるわけ。
ネガティブなことを言うやつより、ポジティブなことを言う人が、いい人だと思っている人はネガティブなことを言うエイリは、よくない人だと思うわけ。
あるいは、ポジティブなことを言う人は、いい人で、ネガティブなことを言う人は悪い人だ」と思っている人は、ネガティブなことを言うエイリは悪い人だと思うわけ。
けど、きちがいヘビメタが鳴ってたんだよ。こころも、勉強時間も、睡眠時間も破壊してしまうようなきちがい騒音が鳴ってたんだよ。鳴ってない人にはわからない。どういう状態になるかわかっていないのだ。
けど、だれにでも、つかれた状態はあるし、たいていの人には騒音体験がある。
だから、つかれた状態ぐらい知っているということになるし、騒音体験ぐらい自分だってあるということになる。
その場合、程度を考えなければ、自分だってつかれた状態ぐらい知っているし、騒音体験ぐらいあるということになって、エイリが言っていることがまちがっていると思ってしまうわけ。
ともかく、溝ができるんだよ。
きちがい家族による頑固な頑固な騒音というのは、溝をつくりだすものなのだよ。きちがい家族の騒音にやられた人と、きちがい家族の騒音にやられていない人のあいだに、深い深い溝ができるんだよ。
きちがい兄貴は、そもそもでかい音で鳴らしているつもりがないし、ぼくがどれだけこまっているか(どれだけ言われても)まったくわからないので、「そんなことになっているとは知らない状態」で一生をすごすわけ。やられたこっちとしては、こういうことも腹がたつわけ。