2025年9月18日木曜日

●「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはない■社会※2025/09/17 7:43

「運をあげる方法」とか「強運になる方法」ということについて考えてみよう。こういうことについて、よく言われることは、「運というのは、平等にふりそそいでいるのだけど、運をつかめる人と運をつかめない人がいる」ということだ。

「運をつかむ用意をしている人は、運をつかむことができるけど、運をつかむ用意ができていない人は、運をつかめない。その差が、運がいいとか運が悪いといった、差になってあらわれる」……というようなことを、言う人たちが多い。

「運」のかわりに「チャンス」という言葉を使う場合もある。

「チャンスをつかむ用意ができている人は、チャンスをつかめるけど、チャンスをつかむ用意ができていない人は、チャンスをつかめない」というような話をする人たちも、いる。

けど、「運が平等にふりそそいでいる」という前提は、まちがっている。

どこのうちに生まれたかということが、重要な影響をあたえる。差があるのである。もう、生まれた時点で、差がある。

そして、遺伝子などで決まる内部環境もちがうのに、内部環境の差なんて、まったく、「運」とは関係がないということになっているのである。

いや、どういう才能をもって生まれたかは、単純に言って、「運」のつかみやすさ?に影響をあたえるだろ。

才能があるほうが、才能がないほうより、「運」をつかみやすい傾向にある。

だいたい、「運」と言っているのは、この場合、なんかで成功するということなのだ。成功する人は、「運」があるから、成功するというようなへんな前提が成り立っている場合が多い。成功したあとに「運」が強いと言われるようになるのである。

「運」という言葉で、なにを表しているのかということが、ほんとうは、重要だ。

ほんとうは、外部環境と内部環境の影響をうける。成功するかどうかというのは、外部環境と内部環境の影響をうける。そして、生まれたときに、それは、きまってしまう。

もちろん、「時間経過と発達 」という問題がある。おぎゃーーとうまれたときには、わからない「才能」が花開くこともある。小さいときにはわからない「才能」が、花開くこともある。時間の経過というのは、重要な意味をもつ。

そして、意思の問題もある。

しかし、生まれたときの外部環境と内部環境は、その人が成功するかどうかということに、影響をあたえているのである。生まれたときの外部環境と内部環境を無視して、外部環境と内部環境とは関係なく「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはないのだ。

「やりやすさ」ということだって、環境のひとつだ。

たとえば、親がパソコンをもっていたので、小さいときから、パソコンを使えたという人もいる。いっぽう、親がパソコンをもっていない人もいる。親が、子どもにパソコンを買い与えなかった場合、その子どもは、小さいときから、パソコンを自由に使うということができない。

あれば、いじれるけど、ないから、いじれないという場合がある。

これだって、外部環境の差なのだ。

もちろん、パソコンに興味をもたない人もいる。

ようするに、パソコンなんかに、ぜんぜん興味をもたない子どももいる。これは、内部環境の差だ。だから、パソコンがあるうちに生まれれば、その子は、パソコンに興味をもってパソコンをつかいはじめるわけではない。

しかし、「やりやすさ」には、あきらかに差がある。

パソコンがある家と、パソコンがない家では、「やりやすさ」に差があるのだ。これは、チャンスの差だと言い換えることもできる。パソコンを気楽に小さいときからいじれる「チャンがあるかないか」の差だと言い換えることもできる。

なので、外部環境の差は、そのまま、チャンスの差になりえるのである。

「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはない。

*     *     *

なんとなくなんだけど、運しだい論は、努力論の裏返しなのではないかと思う。努力論を補完するところがあると思う。

「努力をしたけど、成功しなかった」……という人たちのために、「運しだい論」があるのではないかと思う。

「努力じゃなくて、運の差なのだ」というところに、もっていきたいのではないかと思う。

努力をしたい場合は、努力論を信じて、努力をしたくない場合は、運しだい論を信じればいいのだ……ということになっているのだろう。

しかし、運しだい論でも、「チャンスがきたとき、うまくつかめるようにしておかなければならないのだ。これは、「チャンスを待つ努力をして、チャンスがきたら、つかむ努力をしなければならない」ということだ。けっきょく、「用意をする」努力はしなければならない。

まあ、「努力論」と「運しだい論」が両方ともある場合、どっちかを選べば、気分的に楽になる。それぞれ、「努力をすれば成功する」「努力をすればいいことがある」ということや「運しだいで成功する」「運がよければいいことがある」ということを「保証」するからだ。もちろん、「保証」なんて、してくれないのだけど、「信じれば」「保証されたような気分」になるだろう。

「努力しなくても運しだいだ」ということになっていれば、「努力論」をすてて「運しだい論」を選ぶ人も出てくる。

そして、引き寄せのように、「運をあげる方法」は、お手軽だ。心構えの問題になる。用意をして待っていればいいのである。お気楽な方法を信じたい人は「運しだい論」を信じるようになる。

努力しなくてもよいのだから、お手軽だ。

しかし、配られたカードで「ある程度」決まってしまっているところがある。もちろん、人生、なにが起こるかわからない。時間の経過というのがあるからね。

けど、配られたカードの強さは、チャンスが起こる頻度に影響をあたえるのである。

だから、「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはない。言ってみれば、チャンスは、ものすごく不平等にふりそそいでいる。生まれたときから、チャンスにおいても、不平等なのである。生まれたときから、運においても、不平等なのである。

生まれたときの「運の不平等」はガン無視してしまうのである。

そして、「運」が平等にふりそそいでいるのだということを言う。

悪い家に生まれた人は、すでに、生まれた時点で、運がないのであり、よい家に生まれた人は、生まれた時点ですでに、運がいい……のである。「運」ということを言うならそういうことになる。

「運」というのも、じつは、ひっくり返しで、現実の写し絵なのだ。現実のほうがさきに決まっていて、それを「運がいい」と評したり、「運が悪い」と評したりしているだけだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。