「運をあげる方法」とか「強運になる方法」ということについて考えてみよう。こういうことについて、よく言われることは、「運というのは、平等にふりそそいでいるのだけど、運をつかめる人と運をつかめない人がいる」ということだ。
「運をつかむ用意をしている人は、運をつかむことができるけど、運をつかむ用意ができていない人は、運をつかめない。その差が、運がいいとか運が悪いといった、差になってあらわれる」……というようなことを、言う人たちが多い。
「運」のかわりに「チャンス」という言葉を使う場合もある。
「チャンスをつかむ用意ができている人は、チャンスをつかめるけど、チャンスをつかむ用意ができていない人は、チャンスをつかめない」というような話をする人たちも、いる。
けど、「運が平等にふりそそいでいる」という前提は、まちがっている。
どこのうちに生まれたかということが、重要な影響をあたえる。差があるのである。もう、生まれた時点で、差がある。
そして、遺伝子などで決まる内部環境もちがうのに、内部環境の差なんて、まったく、「運」とは関係がないということになっているのである。
いや、どういう才能をもって生まれたかは、単純に言って、「運」のつかみやすさ?に影響をあたえるだろ。
才能があるほうが、才能がないほうより、「運」をつかみやすい傾向にある。
だいたい、「運」と言っているのは、この場合、なんかで成功するということなのだ。成功する人は、「運」があるから、成功するというようなへんな前提が成り立っている場合が多い。成功したあとに「運」が強いと言われるようになるのである。
「運」という言葉で、なにを表しているのかということが、ほんとうは、重要だ。
ほんとうは、外部環境と内部環境の影響をうける。成功するかどうかというのは、外部環境と内部環境の影響をうける。そして、生まれたときに、それは、きまってしまう。
もちろん、「時間経過と発達 」という問題がある。おぎゃーーとうまれたときには、わからない「才能」が花開くこともある。小さいときにはわからない「才能」が、花開くこともある。時間の経過というのは、重要な意味をもつ。
そして、意思の問題もある。
しかし、生まれたときの外部環境と内部環境は、その人が成功するかどうかということに、影響をあたえているのである。生まれたときの外部環境と内部環境を無視して、外部環境と内部環境とは関係なく「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはないのだ。
「やりやすさ」ということだって、環境のひとつだ。
たとえば、親がパソコンをもっていたので、小さいときから、パソコンを使えたという人もいる。いっぽう、親がパソコンをもっていない人もいる。親が、子どもにパソコンを買い与えなかった場合、その子どもは、小さいときから、パソコンを自由に使うということができない。
あれば、いじれるけど、ないから、いじれないという場合がある。
これだって、外部環境の差なのだ。
もちろん、パソコンに興味をもたない人もいる。
ようするに、パソコンなんかに、ぜんぜん興味をもたない子どももいる。これは、内部環境の差だ。だから、パソコンがあるうちに生まれれば、その子は、パソコンに興味をもってパソコンをつかいはじめるわけではない。
しかし、「やりやすさ」には、あきらかに差がある。
パソコンがある家と、パソコンがない家では、「やりやすさ」に差があるのだ。これは、チャンスの差だと言い換えることもできる。パソコンを気楽に小さいときからいじれる「チャンがあるかないか」の差だと言い換えることもできる。
なので、外部環境の差は、そのまま、チャンスの差になりえるのである。
「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはない。
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なんとなくなんだけど、運しだい論は、努力論の裏返しなのではないかと思う。努力論を補完するところがあると思う。
「努力をしたけど、成功しなかった」……という人たちのために、「運しだい論」があるのではないかと思う。
「努力じゃなくて、運の差なのだ」というところに、もっていきたいのではないかと思う。
努力をしたい場合は、努力論を信じて、努力をしたくない場合は、運しだい論を信じればいいのだ……ということになっているのだろう。
しかし、運しだい論でも、「チャンスがきたとき、うまくつかめるようにしておかなければならないのだ。これは、「チャンスを待つ努力をして、チャンスがきたら、つかむ努力をしなければならない」ということだ。けっきょく、「用意をする」努力はしなければならない。
まあ、「努力論」と「運しだい論」が両方ともある場合、どっちかを選べば、気分的に楽になる。それぞれ、「努力をすれば成功する」「努力をすればいいことがある」ということや「運しだいで成功する」「運がよければいいことがある」ということを「保証」するからだ。もちろん、「保証」なんて、してくれないのだけど、「信じれば」「保証されたような気分」になるだろう。
「努力しなくても運しだいだ」ということになっていれば、「努力論」をすてて「運しだい論」を選ぶ人も出てくる。
そして、引き寄せのように、「運をあげる方法」は、お手軽だ。心構えの問題になる。用意をして待っていればいいのである。お気楽な方法を信じたい人は「運しだい論」を信じるようになる。
努力しなくてもよいのだから、お手軽だ。
しかし、配られたカードで「ある程度」決まってしまっているところがある。もちろん、人生、なにが起こるかわからない。時間の経過というのがあるからね。
けど、配られたカードの強さは、チャンスが起こる頻度に影響をあたえるのである。
だから、「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはない。言ってみれば、チャンスは、ものすごく不平等にふりそそいでいる。生まれたときから、チャンスにおいても、不平等なのである。生まれたときから、運においても、不平等なのである。
生まれたときの「運の不平等」はガン無視してしまうのである。
そして、「運」が平等にふりそそいでいるのだということを言う。
悪い家に生まれた人は、すでに、生まれた時点で、運がないのであり、よい家に生まれた人は、生まれた時点ですでに、運がいい……のである。「運」ということを言うならそういうことになる。
「運」というのも、じつは、ひっくり返しで、現実の写し絵なのだ。現実のほうがさきに決まっていて、それを「運がいい」と評したり、「運が悪い」と評したりしているだけだ。