「うれしいうれいしい」と言えば、うれしくなるとする。
言霊信者は、「うれしいうれしい」と言えば、どんな状態だって、うれしくなると思っている。
ところが、言霊信者であるDさんだって、「Eさんが、愚痴を言った」「Eさんの愚痴を聞かされた」と思ったときは、うれしくはない状態になるのである。
さあ、うれしくない状態になったとき「うれしいうれしい」と言うと、うれしくなるか?
Dさんの普段の主張にあわせれば、うれしくなるはずなのである。
けど、Dさんは「うれしいうれしい」と言わずに、おこって、Eさんとの付き合いをやめるという決心をしたのだ。自分のことだと、この通り、一切合切、言霊思考にならないのである。
自分が「不愉快だ」と感じたときは、「不愉快だ」と感じたままに思考をして、判断をするのである。
言霊理論にしたがえば、どんなに不愉快な状態でも、「うれしい」と言えば、うれしくなるのだろう。
だったら、Eさんとの一件のときも「うれしい、うれしい」と言えばいいじゃないか。
Dさんも人間だから、ほんとうに「うれしい」と感じる出来事が、人生のなかで、あったと思う。これは、うれしいと自然に感じる出来事があったから、その出来事のあとや、その出来事の最中に、うれしいと感じたのだ。
「うれしい」と言えば、うれしくなるとDさんが言うときの、うれしさのイメージは、実際にうれしいときに感じたときのうれしさのイメージがもとになっている。
Dさんは、自分が一倍速で、腹がたつことを経験しているときは、「うれしい」と言っても、うれしくならないのだけど、それに気がつかないのだ。
人には、「うれしいと言えば、うれしくなる」と言っている。「これが正しい」と言っている。「言霊は絶対だ」と意味不明なことまで、言っているのだ。
問題なのは、Dさんがほかの人に「うれしいと言えばうれしくなる」と言っているときは、相手が「うれしい」と言えば、ほんとうに、相手にとって「理由があるとき」のように、相手がうれしくなると、Dさんが思っているということだ。
うれしくなる理由があるときに、うれしいと思うのは、当然だ。
うれしいと自然に感じることができる出来事が、実際に起こったので、それに対応して、うれしいという感情があふれ出しているのだから、うれしいと感じているわけだ。
このときに感じる「うれしさ」と、不愉快なことがあったのに、「うれしい」と無理やり言うことで発生する「うれしさ」がおなじ程度のものだと、Dさんは考えているのである。
そういうふうに、設定して、考えている。
設定のなかでは、うれしくなる理由があって、うれしく感じるときと、不愉快だと感じる理由があるときに「うれしい」と言うことによって感じる「うれしさ」の、質と量がおなじだと、Dさんは普通に考えているのである。
ようするに、相手にとって、ものすごく、いやなことがあったとき、「うれしい」と言って感じるうれしさ」は、うれしいことが実際にあって感じるうれしさと同等レベルのうれしさだと、言霊主義者であるDさんは、勝手に思い込んでいるのである。
そして、「これが真実だ」と相手に言うのである。
「言ったことが、現実化するので、うれしいと言えば、うれしくなる」「これが真実だ」と言っているときに想定している、相手におけるうれしさの内容は、相手において、うれしいと感じる理由があったときのうれしさと、おなじレベルのうれしさだと、Dさんは思い込んでいるのである。
ものすごく腹がたつ出来事がしょうじた直後に「うれしい」と言うことで、感じる「うれしさ」と、ほんとうにうれしく感じるような出来事がしょうじた直後に「うれしい」と言ったときの「うれしさ」が同等のうれしさだとDさんは思っているのだ。
これ、どうにかならないのか?
Dさん、本人が、「Eさんは愚痴ばかり言う」と腹をたてているときには、「うれしい」と言って問題を解決しようとは思わないのだぞ。
「Eさんは愚痴ばかり言う」と腹をたてているときは、言霊主義者のDさんですら「うれしいうれしい」と言っても、うれしくならない。
「うれしい」と言っても、うれしくならないということを知っているので、不愉快な出来事のあとは、「うれしい」と言わないのである。「不愉快だ」と言うのである。
そして、今後、不愉快な思いをしないように、Eさんとの付き合いを切るというような判断をするのだ。
自分が一倍速で感じていることには、心理的な根拠を感じるのである。
ところが、自分が一倍速で感じていないことには、心理的な根拠を感じないのである。言霊主義者や、相手のみになって考えることが不得意な人は、相手のことであれば、心理的な根拠を感じないのである。
だから、中立的な状態で「うれしい」と言ったときに、「うれしくなったような気がした」というようなレベルの「うれしさ」でも、「うれしい」と言えば、うれしくなると確信してしまう。
中立的な状態で、特に、不愉快なことが発生しなかったときに、「うれしい」と言ったら、うれしくなったような気がしたというレベルのうれしさなのである。これは、弱いレベルのうれしさだ。
そして、言霊主義者は「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」とか「どんなにつかれていても、元気だ言えば、元気になる」とか「どんなにくるしくても、うれしいと言えば、うれしくなる」というようなことを言うわけだ。
「どんなに」という条件を付ける。
ところが、実生活のなかでは、不愉快な出来事が起これば、「うれしい」と言っても、うれしくならないのである。実生活のなかでは、遠距離通勤をして、ボロボロにつかれているとき、駅のホームで「元気だ」と言っても、つかれたままなのである。元気にならない。
現実生活のなかで、頭にくることがあれば、「楽しい」と言ったって、楽しくならないのである。実際は、言霊主義者だってそうなのである。
自分がおこっているときは「楽しい」と言っても楽しくならないし、「うれしい」と言っても、うれしくならないということを、無意識期には、言霊主義者も知っているのである。だから、そういうときは、言霊的な解決方法を思いつきもしないのだ。
ところが、ほかの人が不愉快だと感じているときは、本人は、現実的な理由があって不愉快になっているわけではないので、軽く考えてしまうのである。
そうすると、教条主義者になって、「言霊の法則は絶対だから、楽しいと言えば楽しくなる」と断言してしまう。
