ヘビメタ騒音で!!!いきいきとした反応をかえせなくなってしまったのである。
これは、ヘビメタ騒音でそうなったわけで、ほかの理由でそうなったわけではない。
まあ、ヘビメタ騒音が、二次災害、三次災害を引き起こすし、二次災害、三次災害のなかで、きちがい親父とのかかわりが生じてしまう場合もあるし、ヘビメタ騒音とは関係なく、べメタ騒音が鳴っている生活のさなかで、きちがい親父が発生源である障害がいっぱい、しょうじるわけだから、ヘビメタ騒音だけが理由かといったら、ちょっとだけまちがいがしょうじるのだけど、きちがいヘビメタ騒音が、最大の理由であり、きちがいヘビメタ騒音が、その後のさまざまな理由の発生源であるということは、うたがいがない事実だ。
きちがいヘビメタ騒音の繰り返しにより、いきいきとした反応をかえせなくなった。もし、ヘビメタ騒音がなければ、いきいきとした感情がしょうじて、いきいきとした反応をかえせるのである。
人が言ったことや、人がやったことに対して、いきいきとした反応をかえすことができたのである……。ぼくは……。ヘビメタ騒音漬けになり、いきいきとした感情を……うしなう……まえは……。
毎日毎日、何時間も何時間も、きちがいヘビメタ騒音が続いたことにより、いきいきとした感情をうしない、いきいきとした感情の発露である「リアクション」をうしなった。
ヘビメタ騒音が続いているときは、つらい。
けど、鳴り終わったあとも、おなじぐらいに、くるしいのである。「そんなことはない」「自分なら平気だ」と思える人は、ぼくと同レベルの騒音を経験したことがない人だ。
騒音の質と、騒音のでかさと、騒音を鳴らしている人がちがうのである。ようするに、同質、同量の騒音を経験していない。
経験すれば、そうなるということが、必然的にわかる。
いやだって、わかるのだ。
わかっていないのだから、経験していない。
経験していない人には、そういう症状があらわれない。だから、自分なら平気だと、逆に考えているだけなのである。
そういう自信にすぎないのである。
もし、ほんとうに、経験したら、そんなことは、言っていられなくなる。
生活の中で、いやというほど、思い知らされる。思い知らされることが、次々に起こる。
そして、自分のからだが、すでに、きちがい家族による激しい騒音におかされているので、次々と発生するトラブルや、ものすごくいやなことを、きちがい家族による激しい騒音におかされたからだで、経験することになるのである。
ようするに、トラブルが発生しているときも、いやなことが起こっているときも、自分の進退は、ヘビメタ騒音を経験した身体なのである。ヘビメタ騒音の影響下にある身体なのである。
ヘビメタ騒音の影響下にある身体を使って、ヘビメタ騒音の結果しょうじる二次的なトラブルや、三次的なトラブルに対応しなければならないことになるのである。
そうなると、感情が、どんどん、けずられていくということになるのである。
その問題が、「元気だ元気だ」と言えば、解決できる問題なのかというと、解決できない問題なのである。
その問題が、「楽しい楽しい」と言えば、解決できる問題なのかというと、解決できない問題なのである。
できないのだよ。
ところが、「できる」と言い張るやつが、次から次へと登場する。みんな、おなじことを言う。
「言い方が悪いから、現実化しない」「こころをこめて言えば、現実化する」「現実化するまで、何回でも言えばいいじゃないか」というようなことを言うことまで、おなじなのである。