まず、夢を見せてあげるんだよ。
「夢がかなう方法」というのをおしえてあげる。
そうすると、夢をかなえたい人は、この方法に注意をむけることになる。基本的に、夢をかなえたい人というのは、いまの状態に不満を持ってる人なんだよ。
社会の状態が、過酷であれば、過酷であるほど、欠乏状態になる。不満をもちやすくなる。だから、基本的に、社会は過酷でなければならないんだよ。
そうじゃないと、夢をかなえたい人が、モチベーションをもたない。
ようするに、社会の環境というのが、悪ければ悪いほど、「こまった人」や「くるしい人」がいるわけだから「夢をかなえる方法」には、人が集まることになる。
「夢をかなえる方法」は多くの人の「注目」をあびることになる。
けど、どうして、多くの人が、くるしい状態でくらしているのかというと、それは、くるしい状態でくらしているからなんだよ。
まあ、ともかく、ここでは、「社会において夢をかなえるのがむずかしい」ほど、「夢をかなえる方法」に対する需要が増えるということを覚えておこう。
そして、そのような社会は、ほんとうに、くるしくて、生きにくい社会なのである。夢がかないにくい社会なのである。難易度が高い社会なのである。
夢を見せてあげるとする……。その場合、人間の性格を考えるのである。多くの人は、ジャンプして、法則のようなものに飛びつくのだけど、法則は、法則ではないのである。
多くの人が、法則だと勘違いしているものは、法則ではないのである。
けど、一度、頭の中に「法則」ができあがってしまうと、夢に関することは、「法則にあわせて考える」ことになる。他人の現実はよくわからないので、他人の現実を無視して、「法則にあわせて考える」ようになるのである。
つまり、他人のことも、法則にあわせて考えるようになるのである。
このとき、他人の現実を無視してしまうのである。
「法則に目覚めた人」は他人の現実を無視するようになるのである。「あなたにもできる」と、他人の現実を無視して言ってしまう。
人間にはそういう性質があるのだけど、悪魔のやり方というのは、そういう人間の性質を利用したものなのだよ。
ごく自然に、「自分の現実」は見えるので、「法則性」は、無視することになるのである。
たとえば、言霊主義者は、自分が一倍速で経験していることに関しては、『言霊の法則』を無視して考えるということを、普段から、している。
言霊の法則なんて、無視して、普通に考えているのだ。
自分が一倍速で経験していることに関しては、だまされないのである。
自分が一倍速で経験していることに関しては、自分が一倍速で経験していることだから、勘違いをしないのである。
「夢をかなえる方法」は現実的な方法ではないので、現実的なことに関しては、「夢をかなえる方法」では対処できないということが、わかるのである。
だから、いちおう、ポジティブな方法として、「夢をかなえる方法」が語られるわけだけど、基本的には、この「夢をかなえる方法」というのは、トラブルをうみだすものなんだよ。
どうしてかというと、他人のことは、一倍速で「自分が」経験していることではないので、現実的ではない「夢をかなえる方法」で、夢をかなえられると言ってしまうからなのである。
けど、自分が一倍速で経験していることに関しては、「夢をかなえる方法」は無力であるということが「法則性を信じている人にも」わかるのである。
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夢に関しては、法則性を信じているのだけど、実際に自分が一倍速で経験していることに関しては、法則性なんてまったく信じていない状態でくらしているのだ。夢を信じている人たちは……。あるいは、「夢をかなえる方法」の背後にある「法則性」を信じている人たちは……。
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これは、自己責任論のことを考えれば、よくわかることだ。自己責任論というのは、アンガーコントロールとして語られたものだ。けど、普通に、他人を対象とした自己責任論になってしまう。
本人は、「自分は自己責任論」で生きていくつもりだけど、自分が、一倍速で経験していることに関しては、自己責任なんて感じないのである。人間というのは、感じないようにできている。
それは、「あたりまえ」意識のほうが、あとから「ふきこまれた」自己責任論よりも、強い意識だからだ。
また、DさんとEさんに登場してもらおう。
DさんがEさんの話を聴いて、不満になったとする。「Eさんが、愚痴を言っている」とDさんが認識したので、Dさんにとっては、Eさんの話は、腹立たしいものになるのである。聴いているのがいやなことになるのである。
「すべては自己責任」なのであれば、もちろん、「腹立たしい」と感じたことも自己責任なのである。
いちおう、関係がないけど、「すべては受け止め方の問題だ」という言い方が、精神世界にははびこっている。これも、自分が一倍速で経験しているときは、「すべては受け止め方の問題だ」とは思っていない状態になってしまう。
「あたりまえ」だからだ。
「そう感じてあたりまえだ」と思っているのである。
DさんにとってEさんの話を聴いていることは、不愉快なことなのである。腹立たしいことなのである。「腹立たしさ」に疑いをもてないのである。
「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということになっているのだけど、自分が一倍速で経験していることに関しては「あたりまえ感覚」のほうが優勢なので、「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえよう」とは思えないのである。
普通に、「Eさんの話は愚痴が多い」と感じたままになってしまうのである。
ここで、受け止め方をかえて、「Eさんの話は、有意義でおもしろい」と思い込むことができるかというと、できないのだ。
ここで、精神世界の人たちは「修行がたりない」などと言って、お茶を濁してしまうのだけど、ぜんぜんちがうのだ。そういうことではない。「修行がたりないから、実践できない」ということではないのだ。
その「修行」とやらを、どれだけ意識的に実行しても、理想の状態になれないのである。
むしろ、理想の状態からは、遠ざかることが決定している。どれだけ実行しようとしても、実際には、きれいごとが積み重なるばかりで、負担が増え、ストレスが増えるようになる。
そして、それを解消するために、今度は、やたらと、つめたい考え方に到達してしまうのである。
ともかく、Dさんが「受け止め方をかえよう」として「Eさんの話を、有意義でおもしろい話だ」と思おうとしても、むだなのだ。Dさんが「不愉快だ」と受け止めてしまったのだから、むだなのだ。
こういうことに関しては、意識的に書き換えることができないのだ。
けど、これまた、「法則」について語っているときは、普遍的な抽象世界において、出来事が中立的に生起しているという話をしているのである。わかるかな?
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だいたい、人によって反応がちがうというのは、ちがう人の反応を自分が再現できるということではないのである。
たとえば、DさんとEさんとFさんがいたとする。Fさんは、ほんとうにEさんの話を、有意義でおもしろい話だと思ったとする。Dさんにとっては、Eさんの話は、愚痴でしかなく、不愉快な話なのだ。人によって、Eさんの話に対する反応がちがう。
反応がちがう。
だから、DさんもFさんのように感じることができるかとというと、それは、また別の話なのだ。精神世界の話だと、「人によって、ひとつのことに対する反応がちがう」という話をしたとき、「だから、反応をかえることができる」という話になってしまうのだ。
話の流れはこんな感じだ。
(1)「いい反応」と「悪い反応」がある。(2)悪い反応をする人も、いい反応をすることができるようになる。(3)どうしてなら、そもそも、価値観中立的だからだ。(4)出来事は価値観中立的に生起している。(5)本人が、出来事に意味を付与しているだけだ。(6)だから、受け止め方をかえられる。
このような話の流れになってしまう。
そして、たとえば、トクかどうかということを話すのである。ソンな感じ方をするよりも、トクをする感じ方をしたほうがいいという話をするのである。そういう話を聴くと、単純な人は「その通りだ」と思ってしまう。
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まあ、ともかく、たしかに、人によって反応の差はあるけど、それは、だれかの反応を、別のだれかがまねできるということを意味していない。
反応の差があるということが、受け止め方をかえることができるという話になってしまうのだけど、反応の差があるということは、反応の差があるということをしめしていて、だれかの受け止め方を、別のだれかが、マネできるという話ではないのだ。
けど、マネできるということにしてしまう。
ここでも、じつは、過去の出来事を無視しているのだ。そのときに(だれかが)もっている「受け止め方」というのは、過去において経験してきたことや、過去において経験してきたことを通して感じたことの総体なのだ。
過去と書いたけど、環境と書いてもいいのだ。
時系列的な環境というのがある。そのときもっている感じ方というのは……時系列的な環境のなかで、本人が一倍速で経験してきたことの総体なのだ。
言っておくけど、遺伝子的な性格というのも、内部環境のひとつだ。
ともかく、反応の差があるということと、だれかが、別の人の反応をトレースできるかどうかは別の問題なのだ。
だれかが、だれかの反応を手本にして、自分もその反応をすることができるようになるかどうかは、別の問題なのだ。
ところが、「反応に差がある」ということが「だれかが、べつのだれかの反応をマネすることができる」ということの根拠になってしまうのだ。
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「トク」というのは、意識的な思考をすると「トク」であると判断できるようなことなのだけど、それが、ほんとうに「トク」なのかどうかは、わからない。
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「ソンな感じ方より、トクな感じ方のほうがいでしょ」と言って、「トク」な感じ方に切り替えればいいというようなことを言うわけだけど、ちがうのだ。
ちょっと、努力すれば切り替えられるような話になっているのだけど、意識的には切り替えられない部分があるのである。
そして、たとえば、「トク」な感じ方をしているポジティブな教祖だって、じつは、頑固に、自分の感じ方にこだわって生活をしているのである。
はっきり言えば、「トク」な感じ方をしている教祖だって、自説を批判されたら、おこるのである。自分の考えのなかで、腹がたつポイントというのがあるのである。
これ、まるで「トク」な感じ方をする教祖が、いい人のように語られてしまうのだけど、いい人かどうかわからない。
ともかく、ソントク論になってしまう部分があるのだけど、それがちがうのだ。じつは、これは、ソントク論じゃない部分が、たくさん、ある。