たとえば、DさんとEさんがいたとする。
Dさんは、精神世界の人で、言霊や思霊、受け止め方をかえればいいという考え方が正しいと思っているとする。Eさんも、精神世界の人で、言霊や思霊、受け止め方をかえればいいという考え方が正しいと思っているとする。
Eさんが、政治について批判をしたとする。Dさんは、最初はあわせていたけど、だんだん、『Eさんといるとつかれる』と思うようになったとする。『Eさんの言っていることは、正義ではあるけど、息苦しいことが多い』とDさんは思ったとする。
Dさんは、ついに切れて、Eさんとのつきあいをやめたとする。
けど、Dさんは、ほかの人には「言ったことが現実化する」「思いが現実化する」「受け止め方をかえればいい」と言っている人なのだ。
たとえば、Dさんは「Eさんといると、楽しい」と言えばよかったのである。言えば言ったことが現実化するので、Eさんといると、楽しいと感じるようになるのだ。
たとえば、Dさんは「Eさんの言っていることは、たいへんためになる」と受け止め方をかえればよかったのである。「Eさんといると楽しくなる」と受け止め方をかえればよかったのである。
DさんはEさんに感謝すればよかったのである。
「すべて、感謝感謝」なのだから、感謝すればよかったのである。「Eさんが政治の話をしてくれるので、ありがたい」と感謝すればよかったのである。
Dさんは、Eさんのいやなところ?ばかりを見ないで、Eさんのいいところを見ればよかったのである。
ともかく、Dさんは、人には「言ったことが現実化する」「楽しいと言えば楽しくなる」と自信満々で、何回も言ったのだから、「Eさんといると楽しい」と言えばよかったのである。
それで、問題解決ができる。
Eさんとの縁を切るとかつきあいをやめるという選択をする必要はなかった。
ちがうか?
たとえば、Dさんは、Eさんのことを「政治ネガティブ屋」と批判したとしよう。そう思って、そういうあだ名を、頭の中でつけていたのである。
じつは、言えば言ったことが、現実化するので「ネガティブな人といると、楽しくなる」と言えば、楽しくなるのである。
なので、言霊的な解決方法を実行するべきだったのである。
「政治ネガティブ屋」というようなあだ名をつけずに「Eさんの政治話はためになる」とEさんを、こころのなかでほめればよかったのである。
人について、ネガティブなとらえ方をせず、人についてポジティブなとらえ方をすればよかったのである。すべては、受け止め方次第なのだから、Eさんの発言についても、ネガティブな発言だと受け止めずに、ポジティブな……じつに、じつにためになる発言だと受け止めればよかったのである。
しかし、受け止め方次第だとは思わずに、自分の受け止め方にこだわって、受け止め方をかえなかったのである。
Dさんは、「Eさんは、ネガティブな話ばかりをする」「政治について愚痴ばかりを言う」と受け止めてしまったのである。
精神世界では、現実は自分がつくりだしているだけだという考え方もある。ようするに、出来事というのは、中立的に生起しているものだという考え方がある。
中立的に生起しているものに自分が、意味合いを付与してしまうのである。ネガティブな意味合いを付与すると、中立的な出来事が、ネガティブな出来事になるのである。ポジティブな意味合いを付与すると、中立的な出来事がポジティブな出来事になるのである。
なので、「Eさんは、ネガティブな話ばかりをする」「政治について愚痴ばかりを言う」という意味合いを付与してしまったのは、Dさんだというとになる。
出来事は、中立的なのである。
意味合いをもたないものなのである。
意味合いを付与しているのは、意味合いを付与している個人だということになる。
なので、どういう意味合いを付与するかは、個人が決めることだということになる。中立的な出来事にネガティブな意味合いを付与するか、中立的な出来事にポジティブな意味合いを付与するかは、個人が、決めていることなのである。
だから、この場合、Dさんが、ネガティブな出来事が発生したと思っているだけになる。
Eさんが「非常に重要なことを言った」とポジティブに受け取るか、Eさんが「愚痴を言った」とネガティブに受け取るかは、Dさんの受け取り方次第なのである。
つまり、「Eさんが、政治についてネガティブなことばかり言う」「Eさんが、政治について、愚痴ばかり言う」という現実をつくりだしてしまったのは、Dさんだということになる。
DさんがDさんの現実をつくっているのである。
「Eさんが愚痴を言う」という現実は、Dさんがつくりだした現実なのである。
まあ、こういうことを言われたら、Dさんは、あんまりいい気持がしないだろうと、ぼくは思う。
けど、Dさんがほかの人に「すべては受け止め方の問題だ」と言ったとき、相手は、そう感じているかもしれないのである。
