「過去は記憶の中にしかない」という言い方にも問題がある。「過去は記憶の中にしかないから、関係がない」とか「過去は記憶の中にしかないから、影響をうけないことは、可能だ」とうことを、言いたいのだと思う。
言っておくけど、ぼくは、「過去は記憶の中にしかない」とは、思っていない。過去の出来事は、過去の出来事であって、記憶の中にあるかないかとは関係がないのである。
過去において、Aさんが、Bさんをなぐったら、Aさんのなかに記憶があるかどうかに関係なく、なぐったということになる。
過去において、Cさんが、自宅を出るとき、玄関ドアの鍵をかけたら、Cさんの記憶とは関係なく、玄関ドアは鍵をかけられた状態になるのである。
だから、「自分」が覚えてるかどうかに関係なく、過去においてなんらかの状態の変化がしょうじたなら、過去においてなんらかの状態の変化がしょうじたということは、現在の状態に影響をあたえるのである。
しかし、今回は「過去は記憶の中にしかない」ということにして話をする。前回の続きなのだけど、非・言霊主義者のBさんが、言霊主義者のAさんが「真理だと思っていること」を批判したとする。Aさんは、精神世界の人でもあるとする。言霊だけではなくて、精神世界のなかで、語られるいろいろなことを信じているとする。
「過去は記憶の中にしかない」にしても、Aさんは、自分が真理だと思っていることを批判されたら、Bさんに対して、いやな感じをもった状態になるのである。過去においてBさんが、Aさんが真実だと思っていることを批判した。
Aさんは、普段、「過去は記憶の中にしかない」と言っているとする。「過去は記憶の中にしかないことなのだから、現在の自分に影響をあたえない」と思っているのだ。
ところが、「こいつは、言霊理論を批判したやつだ」と思っていると、Bさんに対する態度がかわるのである。「そっちが、そのつもりなら、こっちだって批判してやる」とAさんが思ったとする。
過去は、記憶の中にしかないのであれば、Aさんが、関係がないと思えば、それで、おしまいなのである。どうしてかというと、Bさんが過去において、Aさんが真実だと思っていることを批判したということは、Aさんの記憶の中にしかないことになっているからだ。
記憶の中にしかないことだから、こだわる必要がない……というのが、じつは、Aさんたちの主張なのである。
ところが、そのAさんが、実際に自分の身に起きたことに関しては、「過去のことだから関係がない」とは思わずに、「過去において、こういうことが起きたから、こいつにはこうしてやろう」と思うのである。
相手であるBさんが、陰謀論者なら、「これだから陰謀論者はあてにならない(あほなことを言う)」と言いたくなるのである。ようするに、『陰謀論者はまちがったことを言うから、言霊理論に関しても、まちがったことを言った』と思いたいのである。
相手であるBさんが、ヘビメタをきらっている人なら、「ヘビメタはリズムにのると気持ちがいい」と言いたくなるのである。もちろん、ほんとうに、ヘビメタが好きである場合もある。
ほかに例をあげるとするなら、相手が、無職なら、「これだから、無職は社会常識がない(だから、言霊理論に関しても、真理がわからずに、まちがったことを言っている)」と言いたくなるのである。
ともかく、揶揄したくなったり、皮肉を言いたくなったりするのである。
「過去は記憶の中にしかない」ということで、過去否定論者がなにを言いたいかということが重要なのである。過去は記憶の中にしかないから……なんなんだ?
過去否定論者は「過去は、単なる記憶だ」ということも言いたいのである。「単なる記憶だから、感情的に反応する必要はない」ということも言いたいのである。
過去というのは、頭の中にしかない単なる記憶なのだから、感情的に反応する必要がないのである。単なる記憶にすぎないのだから……。
ところが、当の過去否定論者が、ある記憶に関しては、感情的に反応して、嫌味や皮肉を言いたくなるのである。言霊理論を否定されたということは、言霊理論を否定されたという単なる記憶ではないのである。
あるいは、「相手が……自分が真理だと思っている言霊理論を真理ではないと言った」ということは、単なる記憶ではないのである。単なる記憶ではなくて、感情を伴った記憶なのである。
もちろん、比較的に言って、感情を伴わない記憶もある。
完全に感情を伴わない記憶があるのかどうかということは、ちょっと、わからない。そのときのメタ認知は成り立っているから、なんらかのことは、認知して、感じていると考えるほうが自然だ。
けど、そういうもののなかで、感情的な動きを感じない記憶だと判断できる場合もある。
その判断基準が、たぶんぼくの判断基準とはちがうのだろう。
まあ、ぼくにしても、比較的に言って、感情を伴わない記憶はあると思う。無味乾燥、無感情である状態で、発生した出来事に関しても、無感情なときに発生した出来事であるというようなメタ認知が成り立っている。
無感情だというメタ認知が成り立っているということは、その記憶が、無感情だという色に染められていたということだ。
ともかく、過去の記憶が単なる記憶にすぎないのであれば、その記憶が、感情的な判断に使われることはないのである。
「こいつは、こういうことをした」という記憶は、単なる記憶ではなくて、感情を伴った記憶なのである。なので、過去の記憶だけど、現在の判断に影響をあたえるのである。
現在の判断は未来の行動に影響をあたえるのである。
なので、過去の記憶は、未来の行動にさえ、影響をあたえるものなのである。
これは、無味乾燥な単なる記憶ではないということを意味している。
なので、「過去は記憶の中にしかないから、影響をうけない」という理論はまちがっている。過去の記憶は、過去の記憶なので、現在の感情や判断に影響をあたえるのである。
