ほんとうに、ぼくにとって、ヘビメタという音楽は、普通の騒音じゃないのである。何も考えられなくなるものすごく不愉快な音なのである。激しく頭にくる音なのである。
頭にくる状態で、なにもできなくなってしまうのである。
ほんとうに、おなじ音量で鳴らしていても、別の曲だったらどうにかなったかもしれないけど、ともかく、ヘビメタはダメなのである。それから、誤解をしている人がいるけど、きちがい兄貴は、自分の耳が悪くなるような爆音で聞いていたんだよ。
きちがい兄貴が、「最大限ゆずったときの音」も、おなじ程度の爆音なんだよ。ぼくが、三味線や、フォークギターぐらいの音で、「勉強ができない」と愚痴を言っていると思っているやつがいるけど、それはちがうんだよ。
けど、そいつに、どれだけ……「爆音のヘビメタと、三味線やフォークギターはちがう」と言ったって、そいつは、認めない。ちがいを認めない。
三味線は、弦をはじく音だ。物理的に、音のでかさがだいたい決まってしまう。フォークギターもそうだ。どれだけ爆音で、フォークギターを弾こうと思っていても、爆音で弾くことはできないのである。耳障りな音を出し続けることもできるけど、それは、フォークギターがもっている本来の音以上の「音のでかさ」で鳴っているわけではない。
けど、エレキギターだと、アンプがあり、巨大スピーカーがあるのだから、音としては、イクラでも大きくすることができるのである。エレキギターのアンプつきスピーカーのでかさというのは、ラジオやテレビについているスピーカーのでかさとはちがう。
ラジオやテレビについているスピーカーよりも、物理的にでかい音が出せるようになっているのである。
もちろん、ボリュームを調節できる部分があるので、ラジオぐらいの音で鳴らすこともできるけど、爆音で鳴らすこともできるのだ。
たとえば、普通のラジオについているスピーカーの口径が八センチだとする。きちがい兄貴のアンプ付き、スピーカーは口径が三〇センチぐらいあるものだった。そして、六畳間に入れた、スピーカーの口径も、三〇センチぐらいあるものだった。
六畳間に、三つも三〇センチぐらいの光景をもつスピーカーがある。こんなの、きちがい。この三つのスピーカーを音が割れないという意味で余力はあるけど、でかい音で鳴らすなんて、きちがい沙汰。
普通は、考えないことなんだよ。
どれだけヘビメタが好きでも、エレキギターを弾くときは、ヘッドホンをして、弾くんだよ。
* * *
きちがい兄貴は、きちがい親父の影響をうけて育った。
きちがい親父は、きちがい親父がやりたくなったことは、きちがい的な意地でやってしまう人なんだよ。
きちがい親父の脳みそと、きちがい兄貴の脳みそは、同型なので、きちがい兄貴も、やりたいことをやってしまうんだよ。
相手が、「やめろ」と何十回も叫んでいても、ちがい的な意地で無視してやってしまうんだよ。そして、無視してやったということを、きちがい的な感覚で無視してしまう人なんだよ。
だから、毎日が、シュラバなんだよ。まるで、みんな、わかっていない。
きちがいがどれだけの意地でやるかわかっていない。そして、きちがい的な意地でやったことなのに、きちがい的な意地でやれるうちは、一切合切、感心がないような態度になってしまうのである。
「感心がない態度」……というは、言いにくいけど、あたかも、自分が一分間もその行為をやっていないときに、しょうじる認知のまま生きているような態度なんだよ。
これが、わかるか。
きちがい的な意地でやったことは、全部、まったくやっていないことと、おなじことなのである。この感覚……。この感覚から出てくる態度……全体。これが、ほかの人にはわからないんだ。
「そんなのおかしい。言えばちゃんと静かにしてくれる」と思って、俺が「嘘を言っている」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。「家族なんだから、言えばわかってくれるよ」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。「そんなの、ちゃんと言えば、しずかにしてくれる。ちゃんと言わないからダメなんだ」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。
こういうところに、実際のきちがい兄貴の態度と、普通の人が思い浮かべる兄貴の態度に、差があるのである。
うちのなかにいない人は、わからないのである。
だから、うちのなかにいない人が、自分の考えをあらためるということは、並じゃないことなのである。自分の考えが、普通に「正しい」と思って生きているわけで、ぼくが「それはちがうんだ」と言っても、なかなか理解してくれない。
エイリが「それはちがうんだ」と、へんなことを言っているという認識になってしまう。そういう理解になってしまう。
そして、きちがい兄貴がやってることが、常識はずれで、ほかの人がやらないことだから、ほかの人は、わからないのである。ほかの人の家族も、きちがい兄貴が、普通にやることを、やらないで生活している。
だから、普通の人は、別に、成人君主じゃなくても、説得力がない人でも、性格が悪い人でも、きちがい兄貴のような家族に「やられる」ということを経験していないのである。
「騒音」という、中間地帯だ。暴力じゃない。けど、暴力並みの力をもつものなのである。
きちがい兄貴のような家族が、家族のなかに一人もいないので、普通の人は、きちがい兄貴のような家族が鳴らす騒音に、毎日さらされ続けたことがないのだ。
だから、毎日毎日、さらされ続けると、どういう状態になるのかということが、まったくわかっていない。自分の経験を通してわかっていないことなのだ。
それでも、騒音体験はあるので、その騒音体験を通して、きちがい兄貴のヘビメタ騒音についてりかいしてしまうのである。
けど、その人の騒音体験と、きちがい家族によって、毎日もたらされる騒音体験は、ちがうんだよ。ぜんぜん、ちがうの。
けど、「ちがうんだ」とちがいがわかっていない人に、どれだけ言ったって、わからないのである。通じない。わからないまま、ものを言うことになる。