「配られたカードでやっていくしかない」というのは、いちおうは、正しい。あくまでも、「いちおう」だけどなぁ。
基本的には、それでも、カードの格差を、小さくするように、社会的に努力しなければならないのである。だから、社会的に小さくすることを、最初からあきらめずに、社会的に小さくすることに賛成しておいたほうがいい。
もちろん、目の前のことに対処することも必要だ。だから、「配られたカードでやるしかない」と思うこともあるだろう。
けど、それとは、別に、社会的に「配られたカードの格差」を小さくすることに、賛成することだってできるだろう。
ようするに、排他的ではないのである。
目の前のことに対処すると同時に、カードの格差を小さくすることを考えてることは可能だ。そして、社会的にカードの格差を、小さくすることを目指すこと自体は、可能なのだ。
ところが、言霊主義、思霊主義、努力論が邪魔をする。
こういうことを信じると、即座に、「格差を肯定する」ことになってしまうのである。個人的な努力でどうにかするべき問題だという認識が生まれてしまうのである。個人的な努力ではどうすることもできない部分があるので、なるべく小さくする方向を目指すということが必要になるのだけど、なるべく小さくする方向を目指すということを、バカにするようになるのである。
無価値なのは、「格差を肯定」して「自分だけは這い上がれるようにと罠にはまること」だ。
これ、罠なのである。
言霊主義、思霊主義、努力論で「個人的に」対処すればいいということになると、社会的に対処する方向について、まったく考えなくなってしまうのである。社会的に対処するべきだという人をバカにするような態度が発生するのである。
いま、目の前のことに個人的に対処すればいいのだという意見を言っている人たちは、みんな、洗脳されて、アホなことを言っている人たちだ。
まず、努力論は抜かして考えるけど、言霊主義や思霊主義は、無益で有害な対処方法なのである。そして、努力論に関しては、むかし、書いたから、ここでは省略する。努力をすること自体は、ある程度「目の前の問題」を解決することができるのである。
しかし、「努力をすることもできない」状態の人には、意味がない解決方法なのである。そして、だれもが、努力することができるという精神論は、言霊理論や言霊主義や思霊主義と同じ問題をかかえているのである。
そして、努力論で問題を解決しようとすると、あとで「しっぺがえし」をくらうことが多いのである。
まあ、退職してから、しっぺがえしをくらうやつが、続出しているね。
そして、努力論で個人的問題を解決しようとすると、悪い意味で競争力が増し、不幸への圧力も増すのである。
努力論を個人的に語る場合は、いかにもいいような感じがするように、語るけど、これは、悪魔のリップサービスみたいなもので、あとで、ひどい目にあうことが、ある程度決まっているところがある。
最初は、いかにも、よさそうなことを言うのである。問題が解決するようなことを言うのである。そして、実際に問題が解決したように見えるのである。
ところが、なぜか知らないけど、どんどん自分の首をしめるようになるのである。あとで、しっぺがえしをくらうように、できている。
けど、あとで後悔しても、おそいのだ。
ともかく、個人的にはどうであれ、社会的には、努力論的な解決方法は、よくない解決方法だ。
