人から好かれることがあっても、ヘビメタ騒音で、それを、うまくいかせないというところがあった。
これ、実際に大音響・苦手な騒音生活をした人じゃないとわからないと思う。
ほんとうに、一日のすべてにたたるのである。
でっ、たとえば、ぼくを好いてくれた人に「ヘビメタ騒音のことを話すかどうか」で迷ったりするのである。これも、ヘビメタ騒音が実際に鳴っていなかったら、発生しなかったことなのである。こんな気持ちにならなくてよかったことなのである。
実際に、きちがい兄貴が、きちがい騒音を毎日、遠慮なく鳴らし続けるので、勉強ができなくなったり、遅刻をしてしまったりということが、ぼくの身に生じるわけなんだよ。
「だれだって朝は眠たい」と言う人もいるけど、それがちがうのだ。
ぼくは、きちがい兄貴が、きちがい騒音を鳴らし始める前の、朝のつらさも知っているけど、ほんとうに、朝のつらさのつらさがちがうのだ。
みんな、自分なら影響をうけないで、「今まで通りに」生活できる……という前提でものを言うけど、これもちがうのだ。「今まで通りに」生活できるはずがない。
そして、たとえば……ぼくを好いてくれた人と、いっしょにいても、ヘビメタ騒音の影響があって、うまくいかないのである。
そして、たとえば、ヘビメタ騒音の影響で、大学受験に失敗して、一浪したとすると、その一浪時代は、ぼくを好いてくれた人といっしょにいても、大学受験のことと、ヘビメタ騒音のことを気にした状態で、いっしょにいるということになってしまうのである。
この、ヘビメタ騒音の影響というのが、はかり知れない。
ヘビメタ騒音のせいで、はずかしい思いをしたり、ヘビメタ騒音のせいで「こころがはりさけんばかり」の思いをして暮らしているのだけど、それだって、ほかの人に言えば「騒音のせいにしている」と言われることになる。
もう、そういうことの繰り返しなのである。
そして、このことは、ほんとうにつらいことだから、きちがい兄貴にヘビメタ騒音を鳴らすときはヘッドホンをするように言うのだけど、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、なまの音にこだわって、スピーカーから鳴らすのである。
スピーカーから鳴らすときは、自分が満足できる音で鳴らすのである。
だから、きちがい兄貴が「気分的に」しずかにしてやったと思っているときの音も、めちゃくちゃにでかい音なんだよ。普通の家だったら一分間だって鳴らすことができない音で、きちがい兄貴がずっと、ドカスカ鳴らしているということが、続く。
* * *
たとえば、切迫度というのが、わからないのである。よその人も、きちがい兄貴も、きちがい親父も、ヘビメタ騒音の切迫度というのがわからないのである。
きちがいヘビメタ騒音が鳴っているときの生活というのは、ヘビメタ騒音が鳴っていない時間帯も、切迫度が高い状態でくらしているのである。
自分にとって、「きちがい兄貴のヘビメタ騒音」の問題は、でかいでかい、問題なのである。
ところが、きちがい兄貴は、俺にとって、きちがい兄貴の騒音が、「小さい小さい」問題だと思っているのである。いちおう、文がおかしくならないように、「小さい小さい」問題として思っているようなことを書いたけど、ほんとうは、きちがい兄貴は「小さい小さい」問題だとすら思っていないのである。
ゼロなのである。
きちがい兄貴の感覚というのは、一秒も、でかい音で鳴らしていないときの感覚なのである。
だから、「小さな影響ですら」あたえていないと思っている状態が続くのである。
ここらへんが、きちがい兄貴と、きちがい親父がおなじなのである。
そして、こういう特殊な感覚が、一般の人にはわかないのである。
だから、ぼくは、不可避的に誤解をうけるのである。
* * *
さっき、ぼくが、「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができなくなる」ということを書いたけど、そういうことだって、「人のせいにしている」「ヘビメタ騒音のせいにしている」と言ってくる人がいるので、言いにくいことになるのである。
「人のせいにしている」「ヘビメタ騒音のせいにしている」と思われること自体が、たいへんに不名誉なことなのである。だったら、言わなければいい」ということになるのだけど、それがちがうのだ。
もう、他の人が、わからないぐらいに、誤解をうけている。
ほかの人というのは、誤解をする立場の人たちなんだよ。
かりに、ぼくが「ヘビメタ騒音のことを言わなかった」としても、ヘビメタ騒音が鳴っているので、ヘビメタ騒音が鳴っていないときのように、行動できないのである。
勉強も睡眠もそうなんだよ。
きちがい的な音のでかさで、自分がこの世で一番嫌いな音が、至近距離で、ドカスカ鳴っている状態というのは、異常な状態なんだよ。
どれだけ、影響をうけないようにしても、不可避的に影響をうけるんだよ。
けど、ほかの人は、実際に自分が経験しているわけではないから、『影響をうけない』という前提でものを言ってくるようになるんだよ。
そういう人たちに……「ヘビメタ騒音のことを言うにしろ、言わないにしろ」……ぼくは、非常にでかい誤解をうけることになるのである。
* * *
つねに、ぼくが、はずかしい思いをしたり、恥をかいたりすることになるんだよ。ほかの人が、ぼくを軽蔑したり、軽く見るようになるんだよ。
どうしてかというと、ヘビメタ騒音が鳴っているからなのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っているということを言うと、たいていの人は「エイリが騒音のせいにしている」「エイリがお兄さんのせいにしている」と思うんだよ。
「そんなのは、お兄さんに言えばいいだろ」と思うんだよ。「言えば、ちゃんと静かにしてくれるよ。家族なんだから……」と思うんだよ。
ほんとうに、恥をかいて生きてきた。これ、ほんとうに、ちがうのである。これ、ちがうのである。みんな勘違いしているけど、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったら、ほんとうにちがうんだよ。
全部がちがう。きちがい兄貴が、きちがい的な意地できちがい的な音のでかさで、きちがい音楽を鳴らしていなかったら、ほかのやつから、軽く見られることもなかったし、 「エイリが騒音のせいにしている」「エイリがお兄さんのせいにしている」と思われることもなかったのである。
だから、こういうこと自体が、葛藤状態になることなのである。
いまですら、「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができない」と言うことには、抵抗がある。抵抗があるけど、もう、学生時代ははるか遠くにしりぞいたので、生きているうちに、言っておこうと思って、言った。書いた。
「ヘビメタ騒音のせいで勉強することができない」とか「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができなくなる」とかと言うことは、非常に不名誉なことなのである。
けど、この現実がわかるか? わかるわけがないか?
きちがい家族による「普通ではない騒音」が、どれだけ「勉強すること」や「学業成績」に影響をあたえるか、ほかの人にはわからない。
みんな、「そんなの鳴ってたって、自分なら勉強することができる」と思っているんだよな。
まあ、ヘビメタが好きな人だと特にそうだろう。
けど、ヘビメタではなくて、自分にとって一番嫌いな音楽だったらどうなんだという話だ。めちゃくちゃにでかい音で鳴っている。ほんとうに、至近距離で鳴っている。あんな音で、きちがい音楽を鳴らしているうちなんてない。
これも、不思議なことなんだけど、きちがい兄貴が、実際に、あの音のでかさで、ずっと鳴らし続けることができたというのが、奇跡なんだよ。ほかの環境じゃ、ありえないことなんだよ。
絶対に、親がどうにかしようと思うし、近所の人だって、もっとガンガン文句を言ってくるはずなんだよ。これ、たまたま、騒音耐性が強い人たちで、言いにくかったから、言わないですごしてしまった人たちなんだよな。
これ、きちがい親父がある程度影響していると思う。
実際、きちがい親父が、庭で(となりの人から)言われたときは「人の息子が鳴らしているのになんだ」と言って、おこってしまったのである。こんなの、ない。
頭がおかしい。きちがい親父が、隣の家の人に、ヘビメタ騒音のことで文句を言われたときの話だ。