たとえば、「配られたカードで勝負するしかない」という言葉がある。
たしかに、配られたカードでやるしかないのだけど、社会制度によって、難易度がかわってくるのである。
ようするに、外部環境によって、難易度がかわってくる。
たとえば、アタオカのくるしい社会では、九のワンペアーだと、非常な苦しみを経験するようになるのだけど、アタオカではない楽な社会では、九のワンペアでも、楽しい経験をすることができるのだ。
思霊信者は「おもいようだ」ということを言うし、引き寄せ信者は「ひきよせればいい」ということを言うのだけど、思霊思考や引き寄せ思考は、じつは、アタオカのくるしい社会を補完しているような考え方……なのだ。
ようするに、思霊思考や引き寄せ思考はよさそうに思えるかもしれないけど、じつは、思霊思考や引き寄せ思考も、アタオカのくるしい社会をつくることに、一役買っている。
アタオカのくるしい社会を維持するための社会装置になってしまっているところがある……。思霊思考や引き寄せ思考は……。
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「非情な苦しみ」なのか、「非常な苦しみ」なのかを考えたところ、つねに非常な苦しみを経験することになるというのは、ちょっとおかしな感じもするし、つめたい態度、情がない態度ということを考えると、非情な苦しみのほうが、あっているかなと思って、そっちを一度は、使った。ほんとうは、どっちでもいい。
けど、非情な苦しみの場合、主体の問題が発生してしまうのである。これ、非情なことをしてくるのは、まわりの人間で、非情な苦しみ感じているのは、やられたほうなのだ。非情な人というように、「非情」という言葉が人を修飾している場合は、いちおう、修飾されるほうと、修飾するほうの性格が一致しているのだ。非情な苦しみの場合、苦しみを修飾しているわけで、非情だと感じる苦しみということになる……。
けど、非情なことをしてくるのは、ほかの人たちなのである。やはり、非常な苦しみと書くべきか。しかし、つねに、非常な苦しみ感じているというのは、ちょっとおかしいな。非・常であるわけだから。まあ、普通に考えれば、非常な苦しみなんだろうな。非情な苦しみじゃなくて……。
ということで、「非常な苦しみ」にしましたーー。ひどい苦しみをつねに感じることだってある。人間のつめたさを、つねに感じることだってある。
けど、非情な人たちばかりのなかで、生きていくのは、くるしいのではないか。非情な人たちは、非情なことをしてくる。非情な苦しみというのは、表現としてはおもしろいなぁ。非情なのは、苦しいからな。けど、自分が非情だから、苦しいという意味と、他人が自分に対して非情なことをしてくるから苦しいという意味がふたつとも、区別なく入ってしまう。