言霊主義者は、まったく理解していないけど「理由の否定」という問題があるんだよ。
「理由の否定」だけではなくて、「努力の否定」もある。
たとえば、言霊主義者は、こまっている相手に「つらいと言うからつらくなる」と言ってしまう。その相手が、個人的に体験した「理由」を否定しているのである。
ほんとうの理由を否定して、「つらいと言ったことが」つらさの理由だと言ってしまっている。
たとえば、言霊主義者は、言霊理論を否定されれば、腹をたてる。腹がたつ理由は、言霊理論を否定されたということなのである。
ところが、言霊理論にしたがうと「腹がたつと言うから腹がたつ」ということになってしまう。実際に、言霊理論を否定されたという事実は、まったく関係がないことになってしまうのである。
ようするに、言霊主義者は、実際の出来事によってしょうじた「感情」を、感情がしょうじたあとに、感情がしょうじたから発した言葉のせいにしてしまうのである。
感情がしょうじたあと、その感情について、のべたとする。
「腹がたつ」と言ったとする。
そうすると、ほんとうは、感情をうみだした理由があるのに、感情の表現が理由で、その感情がしょうじたというクソ理論を……言霊主義者はクチにするのだ。
感情がしょうじたあとの、感情に関する「表現」が理由ではないのだ。感情をしょうじさせた出来事がある。
その出来事を、全部、無視してしまうのだ。あるいは、その出来事の意味を、全部、否定してしまうのだ。
「理由の無視」が前提にあるので、言われたほうは、「むっ」とするのだ。
しかし、こういうことを、言霊主義者に言っても、言霊主義者は、否定する。
最初に、相手の現実的な理由を否定しているのは言霊主義者だ。
実際に発生した出来事によって、感情が発生するのである。
ところが、実際に発生した出来事を無視してしまう。実際に発生した出来事は、感情の理由にならないという前提でカルト理論をクチにするのである。
ところが、自分が一倍速で経験したことだと、そんなことにはならないのである。
実際に発生した出来事によって、感情が発生するのである。言霊主義者でも、日常生活において、出来事が発生している最中や、出来事が発生したあとに、具体的な感情が発生しているのである。それを、言うかどうかは、別の問題だ。
けど、その感情について、言霊主義者が、なんらかのことを言ったとしても、言霊主義者は、「言った」から自分がそう感じたとは、思わないのだ。
これ、ちゃんと、感情が発生する理由があるときは、言霊主義者だって、出来事の発生のあと、出来事に対応した感情が発生して、さらにそのあとに、出来事に対応した感情について、クチにするのである。
たとえば、言霊理論を否定されたという出来事が発生して、そのあとに、腹がたつという感情が発生して、「腹がたつ」と言うのだ。なんの理由もないのに、急に、「腹がたつ」と言ったあと、言霊理論を否定されるという出来事が発生して、腹がたったわけではない。
言霊理論を否定されたのがさきなのである。言霊理論が否定されるという出来事が発生する前に、言霊主義者が、勝手に「言霊理論を否定されて、腹がたつ」と言って、そのあとに、予言が成就される形で「言霊理論を否定される」ということが発生して、その結果、腹がたったわけではない。
「腹がたつと言うから腹がたつ」という理論だと、出来事とはまったく関係なく、「腹がたつ」と言って、腹がたつと言った結果、実際に腹がたったのだということになる。
ようするに、出来事の発生が、本当の理由なのに、ほんとうの理由は、完全に無視されてしまうのである。
どうして、腹がたつという感情が発生したのか?
自分が信じている言霊理論が否定されたからなのである。
実際に、自分が一倍速で経験している場合は、ちゃんと、理由があるのである。ちゃんと、感情を発生させる出来事があって、その出来事のあとに、感情が発生しているのである。
その出来事の最中に、感情が発生する場合もあるけど、これは、出来事の区切り方が問題なのだ。大きな出来事のなかに、小さな出来事が複数個あるとする。
最初の小さな出来事に対応した感情が、しょうじたのである。けど、大きな出来事を、出来事の単位だと思っている場合は、出来事の最中に、感情が発生したと思うのである。
けど、理由としては、出来事はすでに完結しているのである。感情をうみだした時点で、その出来事は、いちおう、完了している。
相手が話をしたあと、腹がたったのではなくて、相手が話している最中に腹がたったとする。話をするいうことを、ひとつの出来事として考えると、相手が話している最中に、腹がたったのだということになる。
しかし、ひとひとつの「話」に注目すると、相手は、すでに、「腹がたつ」なんらかのことを、すでに言っているのである。だから、自分にとって「腹がたつ」ことを、相手が言ったということは、完了している。
全体の話を、一区切りだとすると、「途中で」腹がたったということになり、ひとつの腹がたつ話を、一区切りだとすると「話が完了したあとに」腹がたったということになるのである。だから、どこまでで、区切るかということが問題になる。