たとえば、Eさんがネガティブな発言をしたとDさんが思ったとしよう。
この場合、Eさんが、ほんとうに、ネガティブな発言をしたのかどうかはわからない。客観的に「Eさんがネガティブな発言をしたのか」わからないのである。
しかし、とりあえず、別のことを言いたいので、客観的に、Eさんがネガティブな発言をしたということに、しておこう。そういう前提で話をすすめる。
問題なのは、Eさんの言葉に宿っている言霊の力によって、Dさんが不愉快になったのだとDさんが考えないことだ。Dさんは、こういうときは、Eさんの言葉の問題だと思っているのである。
ようするに、「言霊の力」によって自分が不機嫌になったのではなくて、「言葉の力」によって自分が不機嫌になったと思っているのである。
Eさんの言葉に宿る言霊の力は、効力をもっていないのである。
『Eさんの言葉に宿る言霊がDさんをして、不機嫌にさせた』とDさんが思っていないということに注目しなければならない。
Eさんの言葉の意味をDさんが解釈して、不機嫌な気持になったのである。
言霊は、一切合切出てこない。
出てくるのは、言葉であり、言葉の意味なのである。
なにか神秘的な言霊の力によって、Dさんが不機嫌になったのではないとDさんが考えているということは、重要なことなのである。
言霊の神様に、自分が不機嫌になるように、おいのりをしなくても、言葉の意味によって、不機嫌になったのである。
「神秘的な言霊の力は、関係がない」とDさんは、このとき、考えているのである。
一倍速で(自分自身が)体験していることに関しては、相手の発言や相手の行動によって、自分が不機嫌になったと考えているのである。あるいは、感じているのである。
言霊は、一切合切、でてこない。Dさんの思考のなかに、出てこない。Dさんの頭の中に、でてこない。
ところで、Dさんは、自己責任論者なのだけど、相手の発現や相手の行動によって、自分が不機嫌になったと考えているのである。
自分が不機嫌になったのは、相手のせいだと考えているのである。自分が不機嫌になったのは、Eさんのせいだと考えているのである。
自分が不機嫌になったのは、自分のせいだとは、考えていないのである。
しかし、Dさんは、自己責任論が正しいと(ほかの人には)主張しているのである。そして、「自分は、自己責任論で生きていくよ」と(そのほかの人に)断言したのである。
自分が一倍速で経験していることに関しては、普通に「相手のせい」にしているのである。
問題なのは、Dさんが言霊主義者で自己責任論者であるにもかかわらず、相手の発言……ここではEさんの発言によって、自分が不機嫌になった考えていることなのである。
本人にとってプロセスがあきらかな場合には、言霊の力は(考えのなかに)出てこないのだ。そして、「すべては自己責任だ」と考える「自己責任論者」ではなくて、「自分に責任がある場合もあるし、相手に責任がある場合もある」と考える「普通の人」になってしまうのである。
問題なのは、このような考えが「自分は自己責任論者である」という自己イメージを毀損しないことなのである。問題なのは、このような考えが「自分は言霊主義者である」という自己イメージを毀損しないことなのである。
ほんとうは、毀損されるべきなのである。
本人が、自分のやっていることに気がつかないだけなのである。
本人が、自分のやっていることに気がつかないから「自分は自己責任論者である」という自己イメージや「自分は言霊主義者である」という自己イメージが傷つかない。