2025年9月30日火曜日

●「自分の脳をだませばいい」■騒音※2025/09/30 19:30

「自分の脳をだませばいい」という言い方がある。たとえば、やりたくないことがあったとする。

どうしてやりたくないかというと、たいへんだからだ。

人間の脳は、たいへんだと思うことは、やりたくないと思ってしまう傾向がある。

だから、自分の脳をだまして、「ちょっとだけ」やるということにすればいいというわけだ。

ようするに、全部やろうと思ってしまうから、たいへんだと思ってしまうわけで、ほんのちょっとだけやればいいと思えば、行動することができる。

いったん動けば、なんとか、やっていけるというものだ。自分の脳をだます、自分の脳を想定して言っている。自分の脳を、自分の脳がだますのである。自分の脳をだます脳が、自分の脳の一部たということになっているので、一部の脳が、全体の脳をだますということになる。

まあ、これ、比喩的な表現なんだよね。

まあ、方法としては、「五分だけ動く方法」とか「ここだけやる方法」が推奨されるわけ。けど、長期ヘビメタ騒音で脳が焼かれている場合は、五分だけ動くにしろ、ここだけやるにしろ、ダメなのだ。ダメなものはダメなのだ。

だから、長期騒音を浴びて、それだけで、脳が疲れ切っている場合は、「自分の脳をだます方法」は使えない。

だから、まあ、長期ヘビメタ騒音で脳みそが疲れ切っている状態ではない人向けの「具体的な解決策」ということになる。長期ヘビメタ騒音で脳みそが焼かれている人だけではなくて、普通の状態ではない状態の人は、ダメなのだ。

この「自分の脳をだます方法」というのは、普通の状態ではない状態の人には、向かない。

そうなると、「専門家に相談しろ」「薬を飲め」ということになるのだけど、これも、実は問題なのだ。「薬漬けグタグタ状態」になりがちだからだ。

けっきょく、きちがい的な意地で、きちがい兄貴が、ヘビメタを「ありえない音で」鳴らし続けた場合は、そういう、方法じゃだめだということになる。

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ほんとうは、部分には分けられないのだけど、比喩的な説明をしたいと思う。

基本的には、「全体的な脳」と「全体的な脳をだます脳」という部分に分かれているような感じがするけど、実際には、メタ認知が成り立っている。

ようするに、ある目的を実行するために、自分の脳をだませばいいのだと思って、だまそうとしている自分を俯瞰的に認知している自分がいるということになる。

だから、「だまされる脳」「だます脳」「メタ認知の脳」ということになるのだけど、そもそも、比喩なのである。

わけても、しかたがない。

「メタ認知の脳」まで含めて「自分の脳だ」ということになる。

「自分の脳をだますというのは、比喩的にそういうところを想像してみればいいんじゃないかなぁーー」という話で、脳の実態とはちがうということだ。

「脳科学」というような言葉があると、あたかも、実体としての脳がそのような脳であるかのような誤解をうむわけだけど、ちがう。

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というわけで、ほんとうにひどいことをやられて、脳が疲れ切っている人には、そういう方法は役に立たないわけだ。

けど、「だれにでも役に立つ」「どんな状態でも役に立つ」ということになっていると、軋轢が生じるのである。どうしてかというと、ほんとうは「だれにでも役立つわけではない」し、ほんとうは「どんな状態でも役に立つわげはない」からだ。

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しかし、役に立つ人もいる。ある程度、普通の状態なのであれば、「まずやってしまう方法」は、有効な方法だといえる。どうしてかというと、ゼロではないからだ。ほんのちょっとでも、やれば、ほんのちょっとだけ、進む。ゼロではない。

普通の状態なのであれば、ちょっとは進んだことに満足して、はずみがつくかもしれない。たとえ、ちょっとでも、「はかどった感じ」がするので、わりと有効な方法なのだ。しかし、「普通の状態なのであれば」という条件が付く。

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きちがい兄貴のきちがい騒音が殺人的なのは、「普通の状態」を二四時間、うばってしまうからだ。一年、三六五日中三六五日、つねに鳴らして「普通の状態」を十数年にわたって、うばい続けた。殺人的なことだ。

けど、ほかの人の「身の上」には起こらないことだから、ほかの人にはわからないのである。

だから、「普通の状態」で自分がやって、効果があると思ったことは、効果があると思うわけ。状態に関係なく、効果があると思うわけ。自分に効果があったから、エイリさんにも効果があるだろうと思うわけ。

そこで、ぼくが、「普通の状態じゃないから効果がない」「ヘビメタ騒音にたたられ続けたから、効果がない」ということを言うと……(相手は)へそをまげるわけ。

「エイリはネガティブなことばかり言うからダメなんだ」と思うわけ。けど、まず、その人にはきちがい家族がいないんだよ。そのきちがい家族が、ありえない音で、騒音を鳴らすことにこだわってことだわってこだわって、騒音を鳴らしたということが、その人の身に起こらなかったんだよ。

だから、知らないわけ。

「普通の状態」かどうかということは、その人にとって、関係がないことであるわけ。

「自分だってつかれる」「自分だってつかれているときはある」と思えば、ぼくが言っている「普通ではない状態」について誤解をすることができるわけ。

同程度の「つかれ」だと思うことができるわけ。

けど、実際には、きちがい家族による特殊な騒音というハンディがないわけ。けど、ないことしか経験してないのだから、あることについては、無視しがちになる。

きちがい兄貴がきちがい的な感覚で、よそのうちにおいては、絶対にありえないことをやってしまっているので、ぼくが誤解されるわけ。「普通の状態ではない暮らし」というのが、わかっていない人に、ぼくがそれを説明しても、説明された人は、よく理解しないわけ。

それが、決まっているんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、長期間にわたって鳴っていた騒音なのだけど、この、長期間ということの特異性も、ほかの人は、無視してしまうわけ。

ともかく、ほかの人は 「エイリはネガティブなことばかり言うからダメなんだ」と思って、ぼくのヘビメタ騒音生活について、否定するわけ。

ヘビメタ騒音生活によって、不可避的に生じてしまう状態について、理解をしないまま、「そんなのは関係がない」と否定してしまうわけ。

たとえば、「ちょっとだけやる方法は有効だ」「これは正しい」と言って、ぼくが言っていることを否定してしまうわけ。

つまり、きちがい兄貴が、俺の言っていることを無視して、ぜんぜんでかい音で鳴らしていないつもりで、きちがい的にでかい音で鳴らし続けると、ほかの人の状態と、ぼくの状態のあいだにちがいができるわけ。

この状態の差は、そのまま、認知の差になるわけ。

「状態の認知」の差になるわけ。普通の状態しか経験していない人は、普通の状態について考えてものを言うわけ。普通の状態で「これが有効だ」と思ったから、「これは有効だ」と思っているわけ。

けど、俺は、きちがいヘビメタ騒音によって、「普通の状態で暮らせなかった」のだよ。普通の状態ではないのだよ。

だから、「普通の状態ではない」ことを前提にしてものを言うと、普通の状態でものを考えている人から見ると「(エイリは)ネガティブだ」ということになるわけ。

ネガティブなことを言うやつより、ポジティブなことを言う人が、いい人だと思っている人はネガティブなことを言うエイリは、よくない人だと思うわけ。

あるいは、ポジティブなことを言う人は、いい人で、ネガティブなことを言う人は悪い人だ」と思っている人は、ネガティブなことを言うエイリは悪い人だと思うわけ。

けど、きちがいヘビメタが鳴ってたんだよ。こころも、勉強時間も、睡眠時間も破壊してしまうようなきちがい騒音が鳴ってたんだよ。鳴ってない人にはわからない。どういう状態になるかわかっていないのだ。

けど、だれにでも、つかれた状態はあるし、たいていの人には騒音体験がある。

だから、つかれた状態ぐらい知っているということになるし、騒音体験ぐらい自分だってあるということになる。

その場合、程度を考えなければ、自分だってつかれた状態ぐらい知っているし、騒音体験ぐらいあるということになって、エイリが言っていることがまちがっていると思ってしまうわけ。

ともかく、溝ができるんだよ。

きちがい家族による頑固な頑固な騒音というのは、溝をつくりだすものなのだよ。きちがい家族の騒音にやられた人と、きちがい家族の騒音にやられていない人のあいだに、深い深い溝ができるんだよ。

きちがい兄貴は、そもそもでかい音で鳴らしているつもりがないし、ぼくがどれだけこまっているか(どれだけ言われても)まったくわからないので、「そんなことになっているとは知らない状態」で一生をすごすわけ。やられたこっちとしては、こういうことも腹がたつわけ。 

●「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかという言葉■社会※2025/09/30 1:20

たとえば、外部環境の悪さを、一から一〇までのレベルであらわしたとする。一が一番楽で、一〇が一番苦しいとする。

レベル一の人は、外部環境が一番いいわけだけど、それでも、「苦労」がないわけではない。外部環境が一番いい一段階い人でも、「苦労がある」ということだ。これは、重要だ。

ところで、世の中には便利な言葉がある。「自分だって苦労した」という言葉だ。この言葉を使えば、苦労を、同レベル化できるのである。

その場合、段階一の人がレベル一〇の人に「自分だって苦労した」というと、レベル一の人は、レベル一〇の人とおなじレベルの苦労をしたということになってしまうのである。

そして、いまは、段階を客観的な数値でのべているけど、実際には、レベルを表す客観的な数値なんてない。これは、言ってみれば、神様視点で、レベルを、かりそめに、決定しているだけだ。思考実験だ。

実際には、段階わけなんてない。客観的な指標はない。

そして、個人が自分で「このくらいの苦労をした」と自己申告すると、「このくらいの苦労をした」ということを言っているということになるのである。「このくらいの苦労をした」ということになるわけではなくて、「このくらいの苦労をした」と(その個人が)言っているということになる。

たとえば、ほんとうは神様視点で一レベルの苦労しかしていないのに、本人が「一〇レベルの苦労をした」と言えば、本人が「一〇レベルの苦労をした」と言っているということになる。

で、その個人の発言を、ほかの人がどう受け取るかというのも、あいまいなのである。特に、公式の基準があるわけではないのである。

だから、苦労レベルの自己申告には、つねに、相対評価が成り立っていて、基準もあいまいだということを覚えておこう。

そういう、相対性が成り立っているのだけど、それでも、神様視点で見ると、やはり、苦労の程度に差があるということが成り立っていると、仮に前提して話をすすめる。

問題なのは、「自分だって苦労した」という言葉のあとに、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉が続くことなんだよ。

たしかに、視点のちがいの問題がある。

客観的な指標がないという問題がある。

しかし、この世には、あきらかに、外部環境の差が存在している。

もともと、外部環境がよくて、苦労の度合いがレベル一の人が、苦労の度合いがレベル一〇の人に向かって 「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉を放つのは、傲慢であると(わたしには)思えるのである。

「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかという言葉は、「やり方が悪いんだ」とおなじように、相手のことをせめる言葉なのである。

もし、外部環境が悪くて、レベル一〇の苦労をしたら、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉を、ほかの人に言える立場にならなかったかもしれないのに、「自分だって苦労した」という言葉で、同レベル化して、言ってしまうのである。

「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という言葉は、「やり方が悪い」「努力が足りない」というような攻め言葉とおなじ効果をもっているのである。

一連の流れがあるのである。

(1)「XをすればYになる」という疑似法則の提示(2)うまくいかない個体の発生(3)うまくいかない個体に「やり方が悪い」と言う人の発生(4)うまくいかない個体の反論(5)「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言う人の発生……というような「一連の流れ」がある。

XをすればYになるという疑似法則の提示するほうが、「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言うわけだ。何度も言うけど、「XをすればYになる」という言葉のなかには、外部環境の差や内部環境の差が、一切合切存在しないのである。

けど、実際には、外部環境の差と内部環境の差がある。だから、うまくいかない個体が出てくることが決まっているのである。ほんとうは、「そんな法則はない」「そんな法則なんて成り立っていない」のだから、うまくいかない個体が出てくるのは、必然なのである。

しかし、うまくいかない個体が「内部環境」や「外部環境」について、言及すると……「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」という反論をすることになっているのである。「XをすればYになる」という疑似法則の提示した側が、そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは、言い訳だ」とかと言うことになっているのである。

●この、ヘビメタ騒音の影響というのが、はかり知れない■騒音※2025/09/30 2:39

人から好かれることがあっても、ヘビメタ騒音で、それを、うまくいかせないというところがあった。

これ、実際に大音響・苦手な騒音生活をした人じゃないとわからないと思う。

ほんとうに、一日のすべてにたたるのである。

でっ、たとえば、ぼくを好いてくれた人に「ヘビメタ騒音のことを話すかどうか」で迷ったりするのである。これも、ヘビメタ騒音が実際に鳴っていなかったら、発生しなかったことなのである。こんな気持ちにならなくてよかったことなのである。

実際に、きちがい兄貴が、きちがい騒音を毎日、遠慮なく鳴らし続けるので、勉強ができなくなったり、遅刻をしてしまったりということが、ぼくの身に生じるわけなんだよ。

「だれだって朝は眠たい」と言う人もいるけど、それがちがうのだ。

ぼくは、きちがい兄貴が、きちがい騒音を鳴らし始める前の、朝のつらさも知っているけど、ほんとうに、朝のつらさのつらさがちがうのだ。

みんな、自分なら影響をうけないで、「今まで通りに」生活できる……という前提でものを言うけど、これもちがうのだ。「今まで通りに」生活できるはずがない。

そして、たとえば……ぼくを好いてくれた人と、いっしょにいても、ヘビメタ騒音の影響があって、うまくいかないのである。

そして、たとえば、ヘビメタ騒音の影響で、大学受験に失敗して、一浪したとすると、その一浪時代は、ぼくを好いてくれた人といっしょにいても、大学受験のことと、ヘビメタ騒音のことを気にした状態で、いっしょにいるということになってしまうのである。

この、ヘビメタ騒音の影響というのが、はかり知れない。

ヘビメタ騒音のせいで、はずかしい思いをしたり、ヘビメタ騒音のせいで「こころがはりさけんばかり」の思いをして暮らしているのだけど、それだって、ほかの人に言えば「騒音のせいにしている」と言われることになる。

もう、そういうことの繰り返しなのである。

そして、このことは、ほんとうにつらいことだから、きちがい兄貴にヘビメタ騒音を鳴らすときはヘッドホンをするように言うのだけど、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、なまの音にこだわって、スピーカーから鳴らすのである。

スピーカーから鳴らすときは、自分が満足できる音で鳴らすのである。

だから、きちがい兄貴が「気分的に」しずかにしてやったと思っているときの音も、めちゃくちゃにでかい音なんだよ。普通の家だったら一分間だって鳴らすことができない音で、きちがい兄貴がずっと、ドカスカ鳴らしているということが、続く。

*     *     * 

たとえば、切迫度というのが、わからないのである。よその人も、きちがい兄貴も、きちがい親父も、ヘビメタ騒音の切迫度というのがわからないのである。

きちがいヘビメタ騒音が鳴っているときの生活というのは、ヘビメタ騒音が鳴っていない時間帯も、切迫度が高い状態でくらしているのである。

自分にとって、「きちがい兄貴のヘビメタ騒音」の問題は、でかいでかい、問題なのである。

ところが、きちがい兄貴は、俺にとって、きちがい兄貴の騒音が、「小さい小さい」問題だと思っているのである。いちおう、文がおかしくならないように、「小さい小さい」問題として思っているようなことを書いたけど、ほんとうは、きちがい兄貴は「小さい小さい」問題だとすら思っていないのである。

ゼロなのである。

きちがい兄貴の感覚というのは、一秒も、でかい音で鳴らしていないときの感覚なのである。

だから、「小さな影響ですら」あたえていないと思っている状態が続くのである。

ここらへんが、きちがい兄貴と、きちがい親父がおなじなのである。

そして、こういう特殊な感覚が、一般の人にはわかないのである。

だから、ぼくは、不可避的に誤解をうけるのである。

 

*     *     * 

さっき、ぼくが、「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができなくなる」ということを書いたけど、そういうことだって、「人のせいにしている」「ヘビメタ騒音のせいにしている」と言ってくる人がいるので、言いにくいことになるのである。

「人のせいにしている」「ヘビメタ騒音のせいにしている」と思われること自体が、たいへんに不名誉なことなのである。だったら、言わなければいい」ということになるのだけど、それがちがうのだ。

もう、他の人が、わからないぐらいに、誤解をうけている。

ほかの人というのは、誤解をする立場の人たちなんだよ。

かりに、ぼくが「ヘビメタ騒音のことを言わなかった」としても、ヘビメタ騒音が鳴っているので、ヘビメタ騒音が鳴っていないときのように、行動できないのである。

勉強も睡眠もそうなんだよ。

きちがい的な音のでかさで、自分がこの世で一番嫌いな音が、至近距離で、ドカスカ鳴っている状態というのは、異常な状態なんだよ。

どれだけ、影響をうけないようにしても、不可避的に影響をうけるんだよ。

けど、ほかの人は、実際に自分が経験しているわけではないから、『影響をうけない』という前提でものを言ってくるようになるんだよ。

そういう人たちに……「ヘビメタ騒音のことを言うにしろ、言わないにしろ」……ぼくは、非常にでかい誤解をうけることになるのである。

*     *     * 

つねに、ぼくが、はずかしい思いをしたり、恥をかいたりすることになるんだよ。ほかの人が、ぼくを軽蔑したり、軽く見るようになるんだよ。

どうしてかというと、ヘビメタ騒音が鳴っているからなのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っているということを言うと、たいていの人は「エイリが騒音のせいにしている」「エイリがお兄さんのせいにしている」と思うんだよ。

「そんなのは、お兄さんに言えばいいだろ」と思うんだよ。「言えば、ちゃんと静かにしてくれるよ。家族なんだから……」と思うんだよ。

ほんとうに、恥をかいて生きてきた。これ、ほんとうに、ちがうのである。これ、ちがうのである。みんな勘違いしているけど、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったら、ほんとうにちがうんだよ。

全部がちがう。きちがい兄貴が、きちがい的な意地できちがい的な音のでかさで、きちがい音楽を鳴らしていなかったら、ほかのやつから、軽く見られることもなかったし、 「エイリが騒音のせいにしている」「エイリがお兄さんのせいにしている」と思われることもなかったのである。

だから、こういうこと自体が、葛藤状態になることなのである。 

いまですら、「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができない」と言うことには、抵抗がある。抵抗があるけど、もう、学生時代ははるか遠くにしりぞいたので、生きているうちに、言っておこうと思って、言った。書いた。

「ヘビメタ騒音のせいで勉強することができない」とか「ヘビメタ騒音のせいで勉強ができなくなる」とかと言うことは、非常に不名誉なことなのである。

けど、この現実がわかるか? わかるわけがないか?

きちがい家族による「普通ではない騒音」が、どれだけ「勉強すること」や「学業成績」に影響をあたえるか、ほかの人にはわからない。

みんな、「そんなの鳴ってたって、自分なら勉強することができる」と思っているんだよな。

まあ、ヘビメタが好きな人だと特にそうだろう。

けど、ヘビメタではなくて、自分にとって一番嫌いな音楽だったらどうなんだという話だ。めちゃくちゃにでかい音で鳴っている。ほんとうに、至近距離で鳴っている。あんな音で、きちがい音楽を鳴らしているうちなんてない。

これも、不思議なことなんだけど、きちがい兄貴が、実際に、あの音のでかさで、ずっと鳴らし続けることができたというのが、奇跡なんだよ。ほかの環境じゃ、ありえないことなんだよ。

絶対に、親がどうにかしようと思うし、近所の人だって、もっとガンガン文句を言ってくるはずなんだよ。これ、たまたま、騒音耐性が強い人たちで、言いにくかったから、言わないですごしてしまった人たちなんだよな。

これ、きちがい親父がある程度影響していると思う。

実際、きちがい親父が、庭で(となりの人から)言われたときは「人の息子が鳴らしているのになんだ」と言って、おこってしまったのである。こんなの、ない。

頭がおかしい。きちがい親父が、隣の家の人に、ヘビメタ騒音のことで文句を言われたときの話だ。

2025年9月29日月曜日

●チャンスをつかむように、アンテナを張り巡らせればいい■精神世界※2025/09/29 17:23

「すべては運次第」と考える人は、チャンスを受け止めるアンテナを張り巡らせればいいというようなことを言う。ようするに、チャンスは平等に降り注いでいるのだから、チャンスをつかむように、アンテナを張り巡らせればいいということになるのだ。

しかし、いまの環境で、こんなことをやったら、すぐに詐欺に引っかかってしまう。運しだいだと思っている人を、だますような「おいしい話」が、そこらへんに、ころがっているのだ。高確率で、詐欺に引っかかってしまう。

運しだい論もそうなんだけど、詐欺的な行為と親和性が高いのである。……精神世界の話と言うのは、詐欺的な行為と親和性が高い。言霊理論にも、思霊理論にも、引き寄せ理論にも、それぞれ、「だまし」の部分がある。それこそ、だまされやすい人を、引き寄せている。

そして、最後には、「自己責任論」でとどめを刺すのである。 

●ところが、みんな、みんな、そんなことは、しない■精神世界※2025/09/28 17:03

 精神世界で言われていることというのは、「弱い立場の人」「こまっている人」を追いつめることなのである。

きちがい的な親に虐待されている子どもがいるとする。きちがい的な親は、きちがい的な親の内部的な環境によって、きちがい的な反応をしているのだ。

だから、子どもの姿が、自分の目の中に入ったら(見える範囲に入ったら)……そのまま、きちがい的な理由をつけて、いかりくるうということをするのである。

子ども側の人が「やめて」と言ったってやめないのである。

しかし、たとえば、言霊主義者は、子ども側の人が「虐待される」と言ったから、虐待されたということを言いだすのである。

思霊主義者は子ども側の人が「虐待される」と思ったから、虐待されたということを言いだすのである。

引き寄せ主義者は、子ども側の人が「虐待される」ことを引き寄せてしまったからダメなんだと言い出すのである。

受け止め方主義者は、子ども側の人が「虐待される現実」を創造していると言い出すのである。

それぞれの、対応策について言っておこう。

言霊主義者の対応策は「きちがい的な親は虐待しない」と言えばいいということになるのである。

思霊主義者の対応策は「きちがい的な親は虐待しない」と思えばいいということになるのである。

引き寄せ主義者の対応策は「虐待されないことを強くイメージすればいい」ということになるのである。

受け止め方主義者の対応策は、「ネガティブなことも、受け止め方をかえれば、ポジティブなことになるから、虐待されたと受け止めずに、いいことが起こったと受け止めればいい」ということになるのである。

全部、使えない対応策なのである。

まったく無意味な対応策なのである。

けど、精神世界の人は、有効な対応策だと思ってうたがわない。

「無意味な対応策だ」と言うと、言われただけで、おこってしまう傾向がある。そして、自説をゆずらずに、繰り返すということになる。

精神世界の人が、ゆずってくれることは、まずないのである。言霊主義者が言っているとが、ほんとうなら、言霊主義者が「その親は、二度と虐待しない」と言えば、それで、解決してしまう問題なのである。

思霊主義者が「その親は、二度と虐待しない」と思えば、それで、解決してしまう問題なのである。引き寄せ主義者は、「いい親を引き寄せてあげればいい」のである。

受け止め方主義者は、「すべては受け止め方の問題だ」という受け止め方を、かえればいいのである。「受け止め方の問題には還元できない部分がある」ということを認めればいいのである。

ようするに、「すべては受け止め方の問題だ」という受け止め方をかえて、「すべてを受け止め方の問題にするのは、よくないことだ」と受け止め方をかえればよいのである。

そして、「虐待されたほうが、虐待されたと認識するから、虐待されたという世界ができあがる」ということを言ったということを、反省するべきなのである。

ところが、ぼくの知る範囲では、みんな、みんな、そんなことは、しない。

そういうレベルだ。

ぼくの知る限りでは、精神世界の人は「教条主義はよくない」ということを、よく言うけど、彼らの多くは教条主義になっている。自分のドグマで縛られている。

*     *     *

人には「受け止め方をかえればいい」と言っている人だって、自分が一倍速で経験していることに関しては、自分が侮辱されたと思ったら、おこるのである。受け止め方をかえれば、おこらなくてもいいわけだから、その考えを実践しているわけではない。

自分が一倍速で経験していることに関しては、自分が、ちょっとでも不利な立場に立てば、不満を感じるのである。人には「受け止め方をかえればいい」と言っている人も、普通に不満を感じるのである。受け止め方をかえて、不満を感じないようにするということは、しないのである。

受け止め方の問題だから、不満を感じたときは「うれしい」と受け止め方をかえればよいのである。ところが、自分が、一倍速で経験していることに関しては、その人たちも、受け止め方をかえないのである。

自分が一倍速で経験にしていることに関しては、受け止め方主義者も、自分の受け止め方に固執するのである。事柄が中立的に発生しているから、自分の受け止め方をかえればいいと思って、受け止め方をかえたりしない。

●毎日、つもっている……「朝の感情」が……からだをおそうのである■騒音※2025/09/29 12:09

ほんとうに、ヘビメタ騒音のつらさが、つもるのである。

毎日鳴っているから、毎日、つもるのである。つもったときのしんどさが並じゃないのだ。

でっ、それは、ほかの人が経験したことがないしんどさだから、ほかの人にはわからない。ほかの人の場合、きちがい家族が、きちがい的な意地で、普通ではない時間の長さ、普通ではない音で、騒音を、毎日、鳴らし続けるということがない。

経験としてないのだ。だから、経験として「つもった」ことがない。

「過去は関係がない」とかいきなり言ってしまう人は、その人がどれだけ「俺だってつらいことはあった」「わたしだってつらいことはあった」と言ったって、「過去は関係がない」と言ってしまうレベルのだから、ぼくと同等のつかれを経験したことがないといえる。

この人たちに、きちがい家族がいるかというと、いないのである。きちがい家族が、きちがい的な意地で毎日、きちがい的な騒音を鳴らし続けたということが、あるかというと、ないのである。

けっきょく、「つもって、しんどい」ということがわからないのだ。つもった場合のしんどさがわからない。

あの経験がないやつが、「過去は関係がない」と言ったあと、「俺だってつらいことはあった」「わたしだってつらいことはあった」と言う。これだって、相当にいやなことだ。

無理解ぶりを発揮しているやつが、勘違い発言をしているのだから、いやになる。

けど、こういう状態は、きちがい兄貴によってつくられたのだ。きちがい兄貴が普通の人じゃないから、ぼくが普通の人が経験しない苦痛を経験した。しんどさを経験した。つかれを経験した。

ヘビメタ騒音で、ほんとうに、夜、眠れないのだ。ヘビメタ騒音が鳴ってなければ、普通に眠れたんだよ。

「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言う、普通の人たちには、わからないことだ。きちがいヘビメタを……長時間浴びせられると、鳴り終わったあと、ずっと眠れなくなる。

けっきょく、入眠するのは、午前4時から5時というとになる。

そういう毎日が続けば、最初はストレス対抗でなんとか、くるしくても、なんとかやり過ごすことができるけど、ストレス対抗でやっていて、なおかつ、そのストレスを引き起こしたストレス刺激が、ずっと毎日続くわけだから、疲弊してしまうのである。

その疲弊は、一日のなかで、眠れば解消できる疲弊とはちがう。ぜんぜん、ちがう。こういうこともわかっていないやつが、「俺だってつらいことはあった」「わたしだってつらいことはあった」と言って、クソを言ってくる。「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる。

これ、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言われたとき、俺がどんな気持ちになるか、わかっていないだろ。「元気だ元気だと言えば元気になる」と言うやつは、まったくわかっていない。

で、そういうところの差が、またまた、トラブルを引き起こすのである。つみさかさなった疲労があるので、「元気だ元気だと言えば元気になる」という発言は、こたえるのである。

「うっ」と思うのである。「そんなんじゃない」と思うのである。「やっかいだな」と思うのである。

毎日、つもっている……「朝の感情」が……からだをおそうのである。リコールしてしまうのである。どうしても、感覚ごと思い出してまうのである。

その感覚と「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っているやつの感覚には差がある。「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っているやつは、まるでわかっていない。

けど、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っているやつが「俺だってつらいことはあった」「俺だって、つかれることはある」と言うのである。

もう、はっきり言ってしまうと、こういうやつは、俺にとって害虫なんだよ。けど、害虫だという感じ方は、これまた、問題がある。

けど、きちがいヘビメタ騒音が積み重なると、そうなってしまう。言うに言えない感情もつもりまくる。感覚は、自然に、ウツ側に傾くのである。そして、「元気だ元気だ」と言ったって、まったく元気にならないのである。

2025年9月28日日曜日

●スイッチが入っちゃうと、どれだけ言っても、むだなんだよな■家族※2025/09/28 23:27

自分のブログだから書いちゃうけど、つまんない。粗大ごみを運んでくれた人たちが、ダニにさされたわけだけど、それが気になる。

もうそれは、五年前だけど、気になる。メインの人は納得していたみたいけど、サブの人は納得してなかったからなぁ。

たぶん、刺されたと思う。

それについて考えていたら、きちがい親父が、きちがい的な顔で「ネズミシートで捕まえるからいい」と絶叫していたのを思い出した。親父がネズミシートでネズミを捕まえるから、工事をしなくてもいいという意味だ。俺が、「工事をしよう」と言えば、「ネズミシートで捕まえるからいい」と親父が絶叫していたのだ。

これ、スイッチが入っちゃうと、どれだけ言っても、むだなんだよな。ネズミがはいってきてから、ネズミを捕まえても、ネズミの糞が増えるんだよ。ダニが増えるんだよ。ネズミの小便が壁や床につくので、部屋がくさくなるんだよ。

「ネズミがはいってきてから、捕まえる方法だと、ネズミの糞が増えるから、工事をしよう」と言っていたのだ。その答えが「ネズミシートで捕まえるからいい」「ネズミシートで捕まえるからいい」「ネズミシートで捕まえるからいい」なのだ。

ほんとうに、こまる。

きちがい兄貴が鳴らしていなかったら、俺は、こんな家に住んでいなかった。

きちがい親父は、魚をだしっばなしにして、ネズミのばい菌で死んでいた。それで、あとになって発見されても、ぼくは、関係がない状態だった。

ぼくが、きちがいヘビメタ騒音にやられないで、別の家に住んでいたら、きちがい親父のきちがい行為に、巻き込まれることはなかった。

粗大ごみを運んでくれた人のことを考えると、めちゃくちゃに、重たい気分になるのである。

ダニにされた人の気持ちがわかるからだ。「こんなこと、やってやれるか」という気持になるだろ。「どうして、俺がダニにさされなきゃいけないんだ」という気持になるだろ。

わかるんだよ。

だから、「もうしわけない」と思うんだよ。メインの人は、バルサンをたいても、布団などをいじれば、ダニにさされることもあるということを知っていたみたいだけど、サブの人は知らなかったみたいなんだよな。

ぼくは、全部の部屋で、バルサンをたけば、だいじょうぶだと思っていたんだよ。だから、サブの人がメインの人に「かゆい」と言ったときに、気がついた。メインの人も、サブの人も、俺には、文句を言わなかった。

けど、呼んだのは俺だから、気になるのである。

●おなじ文字列に込められた言霊の量と質はおなじなのかという問題がある■言霊※2025/09/24 0:42

とりあえず、長期・慢性疲労と短期・非慢性疲労をわけることにする。

長期慢性疲労は、何十年間も積み重なった疲労のことだとする。ようするに、眠ったあとも、続く疲労だ。短期・非慢性疲労は、一回眠れば、とれるタイプの疲労だ。一度、夜、ちゃんと眠れば、それでリセットされてしまうような疲労だ。

どっちも、「つかれ」だ。

ところで、四〇年間、長期通勤をしてつかれはてている人がいたとする。この人をAさんだとする。Aさんは、一日のなかで、短期の疲労も、もちろん感じる。

けど、子どもや、わかい人のように、眠ってしまえば疲れがとれるわけではない。長期疲労がたまっているからだ。

まだ、サラリーマン生活をはじめたばかりのわかい人がいたとする。この人をBさんだとする。

ところで、言霊主義者というのは、「言ったこと」に注目しがちだ。「つかれた」と言ったら、「つかれた」という言葉はわからないので、「つかれた」と言った人を、平等に扱うのである。ようするに、区別なく扱う。

「つかれた」という言葉を発した人は、おなじように「つかれた」という言葉を発した人なのだ。だから、長期・慢性疲労と、短期・非慢性疲労の区別をしない。

Aさんが「つかれた」と言っても、Bさんが「つかれた」と言っても、「つかれた」という言葉から発生する?つかれの量は同じなのだ。あるいは、「つかれた」という言葉に宿っている言霊がもたらす「つかれ」の量は同じだと推測できる。

言霊主義者というのは、相手の過去の出来事を無視する傾向がある。言霊主義者が、唯一、重視する「相手の出来事」がある。それは、「言った」という出来事だ。

しかも、言霊主義者は「言ったから、そうなる」と思っているのである。

Aさんが「つかれた」と言ったとする。言霊主義者から見るとAさんがつかれたと言ったから、Aさんはつかれたのだということになる。おなじように、Bさんが「つかれた」と言ったとする。言霊主義者から見るとBさんがつかれたと言ったから、Bさんはつかれたのだということになる。

Aさんにはある四〇年の長距離通勤のつかれが、無視されてしまうのである。

だいたい、Aさんは、「つかれた」と言ったからつかれたのではない。四〇年間の長距離通勤にプラスして、今日のそれまでの時間内に、いろいろな出来事が発生したから、つかれたのだ。

四〇年間の長距離通勤にプラスして、今日のそれまでの時間内に、いろいろな出来事が発生したから「つかれた」と言ったのである。

どうして、四〇年間の疲れを無視してしまうのか?

言霊主義者は、過去否定論者じゃなくても、過去を否定する人間なのだ。この場合、条件がつく。相手の過去は無視するけど、自分の過去は無視しないのだ。

自分が一倍速で四〇年年間の長距離通勤を経験した場合、自分にはそれがわかるので、無視しないのだ。こういう幼稚で単純なところがある。

もう一つ、言霊主義者が無視しない過去の出来事がある。それは、「言った」という過去の出来事だ。「言った」という過去の出来事だけは、例外なのだ。

言霊主義者も、人間なので、「つかれ」という感覚は知っている。なので、「自分だってつかれたことがある」と言えば、それで、相手と同程度の疲れを感じたことがあるということに、なってしまうのだ。

言霊主義者の頭のなかでは、自分も相手と同程度の疲れを感じたことがあるということになってしまう。

これと、「つかれた」と言ったということ以外の過去の出来事を無視してしまう思考が合わさると、自分も相手と同程度の疲れを感じたことがあるという立場で、相手の数十年にわたるつかれを否定することができるのだ。

だって、自分だってつかれたことはあるわけだし、言霊主義者にとって大切なのは、発言だけだから、相手が「つかれた」と言ったら、どういうつかれなのかということは、無視して、「相手がつかれたと言った」ということだけを重視するからだ。

*     *     * 

問題なのは、「つかれた」という言葉に宿っている「つかれ」の量は、「つかれた」という言葉に宿っている「つかれ」の量によって決まると、言霊主義者が考えているかどうかということだ。言葉がおなじなら、おなじ量の「言霊」が宿っていると思うのかどうかということが問題になる。

断言することはできないけど、文字列がおなじなのだから、おなじ文字列から出てくる言霊の量は、おなじだと、言霊主義者が考えているかもしれないという疑いがある。

言霊主義者は、ものすごく、単純な理解しかしないんだよなぁ。

相手が「つかれた」と言ったら、「つかれたんだな」としか理解しない。どういう質のつかれが、どのくらいの量あるのかということは、気にしないところがある。気にしないので「どんなにつかれていても、元気だ元気だと言えば元気になる」と他人に言えるところがあるのではないか。

相手のつかれの質というのは、相手の経験に関係なく、平均化されてしまうのではないか。

相手が「つかれた」という文字列を使うなら、その文字列に対応した「つかれ」しか、言霊主義者は感知しないのではないか。「つかれた」という言葉に宿っている言霊があるとする。

Aさんが「つかれた」と言っても、Bさんが「つかれた」と言っても、「つかれた」という言葉に宿っている言霊のもたらす「つかれの量」は、かわらないのではないかということだ。

そういう理解を言霊主義者がしているのではないかということだ。

言霊主義者は、相手の過去を無視する傾向がある。「つかれた」という言葉が発せられた背景というものについて、深く洞察しないのだ。

相手が「つかれた」と言ったら「つかれたんだな」と思うだけでどういうことが起こって、つかれたのかということは、深く考えないのである。ようするに、相手の言葉以外の、相手の背景を無視する傾向が(言霊主義者には)ある……ように、わたしには、思える。

まあ、ともかく、それとは別に、おなじ文字列に込められた言霊の量と質はおなじなのかという問題がある。もちろん、言霊はないし、言霊の力もないので、言霊主義者がどう考えているのかということが問題なのである。

「つかれたと言うからつかれる」と言霊主義者が言ったとする。「つかれた」という言葉に宿っている言霊の量は、だれが言ってもおなじなのだろうか。「つかれた」という言葉がもたらす、「つかれ」の量がおなじなら、おなじだということになる。

もちろん、質は、無視されている。だってそうだろ。言霊主義者は、相手の背景を無視している。過去の出来事によって、相手の背景が決まるのである。

もちろん、相手が言葉にして表現したぶんしか、他人である言霊主義者は理解しない。相手が表現していない部分が、相手の経験のなかにはあるのではないかということは、可能性としても考えられることがないのだ。言霊主義者によって考えられることがない。

文字列がおなじ言葉なら、おなじ量の言霊、おなじ質の言霊が宿っていると言霊主義者が考えるかどうかということについて、ぼくは、考えているのである。 

*     *     *

ともかく、言霊主義者の理解というのは単純で、相手が「つかれた」と言ったら「つかれたんだな」ぐらいしか感じないのである。

そこには、「平準化された」つかれしかないのである。「つかれた」という言葉がおなじなら、だれが言っても、「つかれた」という記号しか、言霊主義者にはつたわらないのかもしれない。

言葉は、平準化されるなら、記号でしかないんだよ。 

*     *     *

ところで、言霊主義者は、おなじ文字列に宿っている言霊は、おなじ言霊だと思っているのだろうか。「思いが強いほうが勝つ」というような考え方があるのである。もし、思い別良いほうが勝つ」と言霊主義者が思っているなら、おなじ文字列に宿っている言霊は・おなじではないと考えているということになるのである。

『思いが強いほうが勝つ』という言霊主義者の発言について、説明しておこう。
たとえば、AさんとBさんが試合をするとする。Aさんが「勝つ」と言ったとする。言霊的な理解をするなら、「勝つと言ったのだから」Aさんが勝つのだ。

そして、Bさんも「勝つ」と言ったとする。言霊的な理解をするなら、「勝つと言ったのだから」Bさんが勝つのだ。

AさんもBさんも「勝つ」という言葉を使っている。「勝つ」という文字列に込められた「言霊の量」はおなじなのだろうか?

ちがうのだろうか?

すべての言霊主義者が『思いが強いほうが勝つ』と言うかどうかは、わからない。

けど、多くの言霊主義者は単純なので、AさんもBさんも「勝つ」といった場合には、「勝つという思いが強いほうが勝つ」などと言ってしまうのだ。

Aさんの実力やBさんの実力は関係がないのである。言霊主義者は言ったかどうかを問題にする。外部環境も内部環境も、すべて、無視して、「言ったかどうか」ということしか、問題にしない。

「言えば言ったことが現実化する」のだから、そうなる。

言ったかどうかだけが問題になるのである。

その人の実力も、その人のコンディションも、関係がないのである。ところが「勝つ」と言ったほうが、勝つのだ。

両方とも「勝つ」と言った場合は、「思いが強いほうが勝つ」などと、多くの言霊主義者が言ってしまう。

しかし、それは、言霊ではなくて、思いが強いかどうか問題であるということを言っているのである。

言霊は関係がないということになってしまう。

こういうところでも、言霊主義者の考え方というのは、幼稚で支離滅裂なのだ。矛盾ばかりなのだ。

「言い方が悪いから、現実化しなかった」と言霊主義者が言う場合もある。

これは、あとだしで言うことだ。

最初は、どんな言霊主義者も「言えば、言ったことが、現実化する」というのだ。現実化するのだから、現実化しないということはないのである。

ところが、現実化しないということが起こった。それに対する、くるしまぎれの言い訳なのだ。

もうすでに指摘したことだけど、「言い方が悪いから、現実化しなかった」ということは、「言っても言い方が悪いと現実化しない(こともある)」と言っていることになる。

「言えば、言ったことが現実化する」というのは、「言えば、一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということと意味的に等価なので……もう、この時点で、理論的に破綻している。

けど、今回、言いたいのはそのことじゃない。たとえば、言い方によって、こめられる言霊の量を調整できると思っているのかどうかということだ。

もちろん、言霊主義者がどう思っているかということが問題なのである。基本的に、言霊理論はまちがっているので、そんなことを考えてもしたがないと思う人がいるかもしれないけど、ぼくの研究対象は、言霊を信じている人たちなのだ。

言霊自体ではない。

どうも、言霊主義者は、ほぼ全員が「思いを込めて言えば、言霊の量を調整できる」と思っているみたいなのだ。

言霊に込められる思いの量がちがうと思っているみたいなのだ。

そして、思いの量がそのまま、言霊の量になると思っているみたいなのだ。「みたい」という話なるけど、しかたがない。

*     *     *

「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、言霊の力というのは、言葉に(最初から)宿っているので、自分が「宿らせる」力じゃないんだよなぁ。

ここも、なんか、自分が宿らせる力があると思っているみたいなんだよな。

言い方によって、自分が(言葉に)宿らせる言霊の量がちがうと思っているみたいなんだよな。

けど、「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、自分の言い方は、関係がない。

自分が宿らせる力はない。自分が宿らせるのではなくて、言葉に宿っている力なのである。こういうところも、なんか、幼稚なんだよな。

自分が強く言えば、言霊の量も増えて、言霊の力が強くなると思っている部分がある。

だから、「言い方」が問題になる。

けど、「言えば言ったことが、言霊の力によって、現実化する」という理論の場合、言い方に関係なく、言葉に宿っている言霊の力によって、一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化するということになるわけだから、言い方は問題にならない。

●例からの「飛躍」があるのである■精神世界※2025/09/28 11:45

 精神世界の教祖は、単純な例をあげて、法則性について説明をするけど、法則性なんて成り立っていないことのほうが多い。いつも、そうなることではないのだ。しかも、例が架空世界の例になったりする場合もある。ここらへん、注意して考えないとだめだよ。

一例をあげて、法則性について説明したとする。そうすると、すべての場合において、その法則が成り立つような印象をあたえるけど、ちがう。

Aという事柄の集合と、非Aという事柄の集合があったとする。Aという事柄の集合の場合は、ある法則(アルファ)が成り立つとする。

けど、非Aという事柄の集合の場合は、その法則(アルファ)は成り立たないとする。

けど、アルファという法則が、非Aいう事柄の集合にも成り立つような印象を与えてしまうのだ。

たとえば、アルファという法則が「XをすればYになる」というような言葉で表現される場合、Xのなかに、Aという集合しか入らないのであれば、非・Aの集合においては、当然、「XをすればYになる」というようなことは言えないということになる。

*     *     * 

人間に関することを、あたかも、物理法則のように言ってしまうことが、はやっているのだけど、これは、よくない。

例からの「飛躍」があるのである。すべての例について言及することができないので、例というのは、通常、いくつか挙げるだけになる。

その場合、物理法則なら、例として挙がった例、以外の例にも、物理法則が成り立っているのである。

しかし、人間に関することだと、そもそも、例ですら、不適切な例である場合がある。

そして、例として挙がった例、以外の例については、まったく成り立たない場合がある。

そして、これを言っちゃーーおしまいなのだけど、ともかく、言葉のなかに出てくる項目の意味を一意に決められないのである。

人間に関する法則性があるような文のなかに出てくる「項目」は、物理法則のなかに出てくる「項目」とは、本質的にちがうのである。

しかし、人間に関する法則について述べられる文も、物理法則について述べられる文も、区別されないのである。

信者の頭のなかでも、教祖の頭のなかでも、両者の区別ができていない。

抽象的に真似した言い方になっているので、区別がついていない。

物理的な法則について述べる文と人間に関する法則について述べる文が似ているので、「おなじようなものだ」と理解してしまっているのである。

しかし、ぜんぜんちがうものなのだ。

●これ、いま考えてみると、トラブル発生装置なんだよ■騒音※2025/09/27 23:55

「なるべく明るく振舞えばいい」と思うかもしれない。

なるべく明るく振舞うと、悪いことが起こるのである。ぼんくらな、精神世界の人たちが言うことは、全部試してみたけど、全部、マイナスのことしか起こらないのである。

明るく振舞うと……いやなことが発生してしまうのである。明るく振舞うと……失敗してしまうのである。

なんていうかな……。ほんとうは、くるしいわけだから、失敗する。

わからないかな?

これ、ほんとうに、いいことにならないんだよ。精神世界の人たちは苦労した言っても、きちがい家族に、きちがい的なことをされたわけではないのだ。毎日毎日、きちがい家族が、きちがい的な妨害行為をしてくるわけではない。

みんな「苦労した」と言っているけど「精神世界で言われていることを信じるぐらいには」……余裕があるのだ。

たとえば、「明るいことを思うと明るいことが起こる」「どれだけつらいことがあっても、明るく振舞う」……こういうことを信じて行動すると、不愉快なことが起こるのである。

「ニコニコしていればいいことがある」……こういうことを信じて行動すると、とてつもなく不愉快なことが起こるのである。これ、あたりまえなんだよ。

むしろ、あたりまえなんだよ。

不愉快な出来事が発生して、あたりまえなんだよ。そういう、プロセスが、わかっていないということは、自分でやってみたことがないということなんだよ。

きちがいヘビメタ騒音生活をしている状態で、上記のことをこころみたことがないんだよ。きちがいヘビメタ騒音生活と同レベルのことが発生している場合、上記のことをこころみても、よくないことが発生するのである。

これがあたりまえなのである。

よくないことが発生するということが、からだでわかっていないということは、きちがいヘビメタ騒音生活レベルの……つらい生活をしたことがないということなのである。

やってみればわかる。

けど、生活のほうが、ほぼ同じ状態じゃないとわからないわけだ。

「元気だ元気だと言えば元気になる」「俺は、元気だ元気だと言ったら、実際に元気になった」「俺は、楽しい楽しいと言ったら、実際に楽しくなった」……こんなことを言うやつが、同レベルの生活を経験しているわけがない。

同レベルの生活を経験していたら、絶対に、こんなことは言えない。

自分のからだで、「マイナスのことが発生する」ということが、わかる。

ほんとうに、これ、いま考えてみると、トラブル発生装置なんだよ。

もうひとつの、トラブル発生装置なんだよ。いま考えてみると、寝不足状態で、めちゃくちゃにくるしい状態なのに、明るく振舞おうとすると、いろいろなトラブルを引き起こすということが、わかる。

これ、じつは、トラブルを増やす方法なんだよ。言霊的な解決方法にかぎらず、精神世界で推奨されているような方法は、じつは、トラブルを増やす方法だ。

もちろん、こいつらは、「やり方が悪かったんだ」と俺のせいにするだろう。

しかし、酩酊状態で失敗が多くなるように、普段だったら絶対にやらないような失敗が増えるのである。どれだけ、つらい状態でくらしているか、ほんとうにまったくわかっていないなぁ。

これ、わかっていないやつらが、クソを言ってくる。

トラブルが増えるようなことを言ってくる。失敗が増えるようなことを言ってくる。

寝不足で、ハイになっている状態というのは、ちょっとだけ酒を飲んで、ちょっとだけ酔っ払っている状態に似ている。

意識水準が下がるので、普段なら、やらないようなことをやってしまったり、普段なら言わないことを言ってしまったりする。トラブルのもとだ。


2025年9月27日土曜日

●脳も内臓も影響をうける■騒音※2025/09/27 23:45

 ほんとうに、みんな、どういう影響が出るかわかってないんだよなぁ。

ぜんぜん、わかってない。

わかってないやつが、自分なら平気だという前提で、クソを言ってくる。こっちのからだは、もう、ダメな状態なんだよ。なにが「元気だ元気だと言えば元気になる」だ!!

ふざけんな。「そういうレベルじゃないんだ」と言っているのに、こいつらは、こいつらで、まったく理解しない。

こんなアホな連中に、えらそうなことを言われる。帰れば……家に帰れば、きちがいの音ががんがん鳴っている。あの中にいて……あの音のなかにいて、ダメージをうけないということができないのである。

そりゃ、たしかに、勉強ができない時間ではあるけど、勉強ができないということだけでこまっていたわけではないのだ。脳みそを含んだ身体が、影響をうける。脳も内臓も影響をうける。実際に、あの音をあびている……からだ。

これ、きちがいの音を、放射線のようにあびている。

だから、鳴り終わったあとも、不可避的に影響をうける。特に脳のダメージが並じゃない。勉強、意欲、睡眠リズム、すべてに影響がある。どうしても、影響が出る。

けど、ほかのやつらは、やられてないからわからない。これ、ほんとうに、この至近距離で『きちがい家族に』ずっと、何時間もやられるということが……。きちがい家族にやられるということの意味が……。何時間もやられるということの意味がわかっていない。

きちがい家族にやられるということの意味がわかっていない。

みんな、それを軽く見る。それを、無視する。その影響なんてないと考える。

「そんなの関係ない」という言葉がどういうふうに、俺に響くのか、まったくわかっていないやつばかりだ。

「そんなのは、関係、ない」「騒音なんて、関係ない」「鳴り終わったら関係ない」……そんなことを言われて、腹がたたないわけがない。

これ、普通の人は、「正しい」と思って言っていることなんだよな。

そして、きちがい兄貴のように、俺が言っていることを認めない。そういう態度をとっておいて、自分が俺(エイリ)に、いいことをしてやったと思っている。

「エイリがわかっていないから、教えてやった」と思っている。

「社会のルールを教えてやった」……と思っている。「言霊的な解決方法を教えてやった」……と思っている。

クソ野郎だよな。

頭にくる。

●暴力並みの力をもつものなのである■騒音※2025/09/26 14:26

 ほんとうに、ぼくにとって、ヘビメタという音楽は、普通の騒音じゃないのである。何も考えられなくなるものすごく不愉快な音なのである。激しく頭にくる音なのである。

頭にくる状態で、なにもできなくなってしまうのである。

ほんとうに、おなじ音量で鳴らしていても、別の曲だったらどうにかなったかもしれないけど、ともかく、ヘビメタはダメなのである。それから、誤解をしている人がいるけど、きちがい兄貴は、自分の耳が悪くなるような爆音で聞いていたんだよ。

きちがい兄貴が、「最大限ゆずったときの音」も、おなじ程度の爆音なんだよ。ぼくが、三味線や、フォークギターぐらいの音で、「勉強ができない」と愚痴を言っていると思っているやつがいるけど、それはちがうんだよ。

けど、そいつに、どれだけ……「爆音のヘビメタと、三味線やフォークギターはちがう」と言ったって、そいつは、認めない。ちがいを認めない。

三味線は、弦をはじく音だ。物理的に、音のでかさがだいたい決まってしまう。フォークギターもそうだ。どれだけ爆音で、フォークギターを弾こうと思っていても、爆音で弾くことはできないのである。耳障りな音を出し続けることもできるけど、それは、フォークギターがもっている本来の音以上の「音のでかさ」で鳴っているわけではない。

けど、エレキギターだと、アンプがあり、巨大スピーカーがあるのだから、音としては、イクラでも大きくすることができるのである。エレキギターのアンプつきスピーカーのでかさというのは、ラジオやテレビについているスピーカーのでかさとはちがう。

ラジオやテレビについているスピーカーよりも、物理的にでかい音が出せるようになっているのである。

もちろん、ボリュームを調節できる部分があるので、ラジオぐらいの音で鳴らすこともできるけど、爆音で鳴らすこともできるのだ。

たとえば、普通のラジオについているスピーカーの口径が八センチだとする。きちがい兄貴のアンプ付き、スピーカーは口径が三〇センチぐらいあるものだった。そして、六畳間に入れた、スピーカーの口径も、三〇センチぐらいあるものだった。

六畳間に、三つも三〇センチぐらいの光景をもつスピーカーがある。こんなの、きちがい。この三つのスピーカーを音が割れないという意味で余力はあるけど、でかい音で鳴らすなんて、きちがい沙汰。

普通は、考えないことなんだよ。

どれだけヘビメタが好きでも、エレキギターを弾くときは、ヘッドホンをして、弾くんだよ。

*     *     *

きちがい兄貴は、きちがい親父の影響をうけて育った。

きちがい親父は、きちがい親父がやりたくなったことは、きちがい的な意地でやってしまう人なんだよ。

きちがい親父の脳みそと、きちがい兄貴の脳みそは、同型なので、きちがい兄貴も、やりたいことをやってしまうんだよ。

相手が、「やめろ」と何十回も叫んでいても、ちがい的な意地で無視してやってしまうんだよ。そして、無視してやったということを、きちがい的な感覚で無視してしまう人なんだよ。

だから、毎日が、シュラバなんだよ。まるで、みんな、わかっていない。

きちがいがどれだけの意地でやるかわかっていない。そして、きちがい的な意地でやったことなのに、きちがい的な意地でやれるうちは、一切合切、感心がないような態度になってしまうのである。

「感心がない態度」……というは、言いにくいけど、あたかも、自分が一分間もその行為をやっていないときに、しょうじる認知のまま生きているような態度なんだよ。

これが、わかるか。

きちがい的な意地でやったことは、全部、まったくやっていないことと、おなじことなのである。この感覚……。この感覚から出てくる態度……全体。これが、ほかの人にはわからないんだ。

「そんなのおかしい。言えばちゃんと静かにしてくれる」と思って、俺が「嘘を言っている」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。「家族なんだから、言えばわかってくれるよ」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。「そんなの、ちゃんと言えば、しずかにしてくれる。ちゃんと言わないからダメなんだ」と思うやつもいる。そういうやつは、まったくわかっていない。

こういうところに、実際のきちがい兄貴の態度と、普通の人が思い浮かべる兄貴の態度に、差があるのである。

うちのなかにいない人は、わからないのである。

だから、うちのなかにいない人が、自分の考えをあらためるということは、並じゃないことなのである。自分の考えが、普通に「正しい」と思って生きているわけで、ぼくが「それはちがうんだ」と言っても、なかなか理解してくれない。

エイリが「それはちがうんだ」と、へんなことを言っているという認識になってしまう。そういう理解になってしまう。

そして、きちがい兄貴がやってることが、常識はずれで、ほかの人がやらないことだから、ほかの人は、わからないのである。ほかの人の家族も、きちがい兄貴が、普通にやることを、やらないで生活している。

だから、普通の人は、別に、成人君主じゃなくても、説得力がない人でも、性格が悪い人でも、きちがい兄貴のような家族に「やられる」ということを経験していないのである。

「騒音」という、中間地帯だ。暴力じゃない。けど、暴力並みの力をもつものなのである。

きちがい兄貴のような家族が、家族のなかに一人もいないので、普通の人は、きちがい兄貴のような家族が鳴らす騒音に、毎日さらされ続けたことがないのだ。

だから、毎日毎日、さらされ続けると、どういう状態になるのかということが、まったくわかっていない。自分の経験を通してわかっていないことなのだ。

それでも、騒音体験はあるので、その騒音体験を通して、きちがい兄貴のヘビメタ騒音についてりかいしてしまうのである。

けど、その人の騒音体験と、きちがい家族によって、毎日もたらされる騒音体験は、ちがうんだよ。ぜんぜん、ちがうの。

けど、「ちがうんだ」とちがいがわかっていない人に、どれだけ言ったって、わからないのである。通じない。わからないまま、ものを言うことになる。

●うまく、できている■社会※2025/09/27 11:50

ごくごく、簡単に言っておくと、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言うことが、決まっているんだよ。

最初に、妄想的な前提を持ち出したときから、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言うことが、決まっている。

抽象世界で、法則化してしまうのだけど、その法則は、すべての条件において成り立つということになっている。

けど、ほんとうは、すべての条件において成り立つわけではない。

けど、妄想的な前提を信じている人は、「条件」を無視してしまう。

「条件を考慮すること」を、放棄してしまう。完全に放棄してしまう。だから、「べき論」になるし「こうなるはずだ」という話になってしまう。

その場合、一〇〇%詐欺は常に成り立っているので、言っている本人が、言っていることについてよく理解していないということになる。これが問題なんだけど、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言い放つほうは、一〇〇%詐欺のことなんて気にしない。

「Xをすれば、Yになる場合がある」ということと「Xをすれば、一〇〇%の確率で、Yになる」ということは、意味的に等価ではない。

しかし、「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言い放つほうの頭のなかでは、両者の区別がなされていない。

ようするに、「おなじこと」として認識されているのである。だから、ときには「Xをすれば、Yになる場合がある」という意味で「XをすればYになる」と言ったり、ときには、「Xをすれば、Yになる場合がある」という意味で「XをすればYになる」と言ったりすることになる。

両方とも、「XをすればYになる」と言うことになるので、本人は、自分がいま、どっちの意味で「XをすればYになる」と言っているかどうか、わからないまま、話をすすめてしまう。洗脳された人にとってみれば「XをすればYになる」ということは、どんな場合でも、正しいことなので、「これが正しい」と言いはる。

基本的に言って、こういうところで、まちがっているのだけど、洗脳された本人が、まちがいに気がつくことはない。

彼ら、彼女らの頭のなかでは……「XをすればYになる」ということは、絶対に正しいことだ……ということに、なっている。洗脳された人の頭のなかではそうなっている。

そうなると、例外を認めないということになる。こういう条件だと、Xをしても、Yにならないということを、認めないという態度になる。

けど、これも、本人がわかっていないのだ。

本人は……「Xをすれば、Yになる場合がある」ということと「Xをすれば、一〇〇%の確率で、Yになる」ということの、区別ができない。区別をしていない。教祖側の人も、区別ができない人で、区別をしない人だ。

だから、まちがいが伝染していくのである。

どうして、「XをすればYになる」という単純な言い方が好まれるかというと、願いが叶いそうな気がするからだ。

ところが、「XをすればYになる」というのは、環境を無視した話だから、基本的には、願いがかなわないのだ。願いがかなわない場合も、やった人のやり方が悪いということになるので、「XをすればYになる」と言っているほうは、ダメージをうけない。

洗脳された人は、「やり方が悪い」と言うとき、正しいことを言っているつもりしかない。やった人のやり方が悪いと言うことで、相手に負のストロークをあたえているつもりは、まったくない。

そして、「やり方が悪い」ということになると、「いいやり方を教えてやる」ということになって、商売がはかどるのである。おカネのやり取りがない場合も、「XをすればYになる」と言ったほうの優位性は、かわらず、いい気持ちで、相手をディスり、自分はすごいのだという優越感を感じるようになる。

実際に、「いいやり方だ」と思っているので、むしろ、「いいことをしている」という、実感がある場合が、ほとんどなのだ。

けど、悪いことをしている。

まあ、「悪いことをしている」と言ってくる相手には……人間というものは……敵意がしょうじる。

だから、洗脳された人は、どこまでも、この道を突き進むことになる。

うまく、できている。

2025年9月26日金曜日

● まず、夢を見せてあげるんだよ■社会※2025/09/24 22:51

 まず、夢を見せてあげるんだよ。

「夢がかなう方法」というのをおしえてあげる。

そうすると、夢をかなえたい人は、この方法に注意をむけることになる。基本的に、夢をかなえたい人というのは、いまの状態に不満を持ってる人なんだよ。

社会の状態が、過酷であれば、過酷であるほど、欠乏状態になる。不満をもちやすくなる。だから、基本的に、社会は過酷でなければならないんだよ。

そうじゃないと、夢をかなえたい人が、モチベーションをもたない。

ようするに、社会の環境というのが、悪ければ悪いほど、「こまった人」や「くるしい人」がいるわけだから「夢をかなえる方法」には、人が集まることになる。

「夢をかなえる方法」は多くの人の「注目」をあびることになる。

けど、どうして、多くの人が、くるしい状態でくらしているのかというと、それは、くるしい状態でくらしているからなんだよ。

まあ、ともかく、ここでは、「社会において夢をかなえるのがむずかしい」ほど、「夢をかなえる方法」に対する需要が増えるということを覚えておこう。

そして、そのような社会は、ほんとうに、くるしくて、生きにくい社会なのである。夢がかないにくい社会なのである。難易度が高い社会なのである。

夢を見せてあげるとする……。その場合、人間の性格を考えるのである。多くの人は、ジャンプして、法則のようなものに飛びつくのだけど、法則は、法則ではないのである。

多くの人が、法則だと勘違いしているものは、法則ではないのである。

けど、一度、頭の中に「法則」ができあがってしまうと、夢に関することは、「法則にあわせて考える」ことになる。他人の現実はよくわからないので、他人の現実を無視して、「法則にあわせて考える」ようになるのである。

つまり、他人のことも、法則にあわせて考えるようになるのである。

このとき、他人の現実を無視してしまうのである。

「法則に目覚めた人」は他人の現実を無視するようになるのである。「あなたにもできる」と、他人の現実を無視して言ってしまう。

人間にはそういう性質があるのだけど、悪魔のやり方というのは、そういう人間の性質を利用したものなのだよ。

ごく自然に、「自分の現実」は見えるので、「法則性」は、無視することになるのである。

たとえば、言霊主義者は、自分が一倍速で経験していることに関しては、『言霊の法則』を無視して考えるということを、普段から、している。

言霊の法則なんて、無視して、普通に考えているのだ。

自分が一倍速で経験していることに関しては、だまされないのである。

自分が一倍速で経験していることに関しては、自分が一倍速で経験していることだから、勘違いをしないのである。

「夢をかなえる方法」は現実的な方法ではないので、現実的なことに関しては、「夢をかなえる方法」では対処できないということが、わかるのである。

だから、いちおう、ポジティブな方法として、「夢をかなえる方法」が語られるわけだけど、基本的には、この「夢をかなえる方法」というのは、トラブルをうみだすものなんだよ。

どうしてかというと、他人のことは、一倍速で「自分が」経験していることではないので、現実的ではない「夢をかなえる方法」で、夢をかなえられると言ってしまうからなのである。

けど、自分が一倍速で経験していることに関しては、「夢をかなえる方法」は無力であるということが「法則性を信じている人にも」わかるのである。

*     *     *

夢に関しては、法則性を信じているのだけど、実際に自分が一倍速で経験していることに関しては、法則性なんてまったく信じていない状態でくらしているのだ。夢を信じている人たちは……。あるいは、「夢をかなえる方法」の背後にある「法則性」を信じている人たちは……。

*     *     *

これは、自己責任論のことを考えれば、よくわかることだ。自己責任論というのは、アンガーコントロールとして語られたものだ。けど、普通に、他人を対象とした自己責任論になってしまう。

本人は、「自分は自己責任論」で生きていくつもりだけど、自分が、一倍速で経験していることに関しては、自己責任なんて感じないのである。人間というのは、感じないようにできている。

それは、「あたりまえ」意識のほうが、あとから「ふきこまれた」自己責任論よりも、強い意識だからだ。

また、DさんとEさんに登場してもらおう。

DさんがEさんの話を聴いて、不満になったとする。「Eさんが、愚痴を言っている」とDさんが認識したので、Dさんにとっては、Eさんの話は、腹立たしいものになるのである。聴いているのがいやなことになるのである。

「すべては自己責任」なのであれば、もちろん、「腹立たしい」と感じたことも自己責任なのである。

いちおう、関係がないけど、「すべては受け止め方の問題だ」という言い方が、精神世界にははびこっている。これも、自分が一倍速で経験しているときは、「すべては受け止め方の問題だ」とは思っていない状態になってしまう。

「あたりまえ」だからだ。

「そう感じてあたりまえだ」と思っているのである。

DさんにとってEさんの話を聴いていることは、不愉快なことなのである。腹立たしいことなのである。「腹立たしさ」に疑いをもてないのである。

「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということになっているのだけど、自分が一倍速で経験していることに関しては「あたりまえ感覚」のほうが優勢なので、「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえよう」とは思えないのである。

普通に、「Eさんの話は愚痴が多い」と感じたままになってしまうのである。

ここで、受け止め方をかえて、「Eさんの話は、有意義でおもしろい」と思い込むことができるかというと、できないのだ。

ここで、精神世界の人たちは「修行がたりない」などと言って、お茶を濁してしまうのだけど、ぜんぜんちがうのだ。そういうことではない。「修行がたりないから、実践できない」ということではないのだ。

その「修行」とやらを、どれだけ意識的に実行しても、理想の状態になれないのである。

むしろ、理想の状態からは、遠ざかることが決定している。どれだけ実行しようとしても、実際には、きれいごとが積み重なるばかりで、負担が増え、ストレスが増えるようになる。

そして、それを解消するために、今度は、やたらと、つめたい考え方に到達してしまうのである。

ともかく、Dさんが「受け止め方をかえよう」として「Eさんの話を、有意義でおもしろい話だ」と思おうとしても、むだなのだ。Dさんが「不愉快だ」と受け止めてしまったのだから、むだなのだ。

こういうことに関しては、意識的に書き換えることができないのだ。

けど、これまた、「法則」について語っているときは、普遍的な抽象世界において、出来事が中立的に生起しているという話をしているのである。わかるかな?

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だいたい、人によって反応がちがうというのは、ちがう人の反応を自分が再現できるということではないのである。

たとえば、DさんとEさんとFさんがいたとする。Fさんは、ほんとうにEさんの話を、有意義でおもしろい話だと思ったとする。Dさんにとっては、Eさんの話は、愚痴でしかなく、不愉快な話なのだ。人によって、Eさんの話に対する反応がちがう。

反応がちがう。

だから、DさんもFさんのように感じることができるかとというと、それは、また別の話なのだ。精神世界の話だと、「人によって、ひとつのことに対する反応がちがう」という話をしたとき、「だから、反応をかえることができる」という話になってしまうのだ。

話の流れはこんな感じだ。

(1)「いい反応」と「悪い反応」がある。(2)悪い反応をする人も、いい反応をすることができるようになる。(3)どうしてなら、そもそも、価値観中立的だからだ。(4)出来事は価値観中立的に生起している。(5)本人が、出来事に意味を付与しているだけだ。(6)だから、受け止め方をかえられる。

このような話の流れになってしまう。

そして、たとえば、トクかどうかということを話すのである。ソンな感じ方をするよりも、トクをする感じ方をしたほうがいいという話をするのである。そういう話を聴くと、単純な人は「その通りだ」と思ってしまう。

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まあ、ともかく、たしかに、人によって反応の差はあるけど、それは、だれかの反応を、別のだれかがまねできるということを意味していない。

反応の差があるということが、受け止め方をかえることができるという話になってしまうのだけど、反応の差があるということは、反応の差があるということをしめしていて、だれかの受け止め方を、別のだれかが、マネできるという話ではないのだ。

けど、マネできるということにしてしまう。

ここでも、じつは、過去の出来事を無視しているのだ。そのときに(だれかが)もっている「受け止め方」というのは、過去において経験してきたことや、過去において経験してきたことを通して感じたことの総体なのだ。

過去と書いたけど、環境と書いてもいいのだ。

時系列的な環境というのがある。そのときもっている感じ方というのは……時系列的な環境のなかで、本人が一倍速で経験してきたことの総体なのだ。

言っておくけど、遺伝子的な性格というのも、内部環境のひとつだ。

ともかく、反応の差があるということと、だれかが、別の人の反応をトレースできるかどうかは別の問題なのだ。

だれかが、だれかの反応を手本にして、自分もその反応をすることができるようになるかどうかは、別の問題なのだ。

ところが、「反応に差がある」ということが「だれかが、べつのだれかの反応をマネすることができる」ということの根拠になってしまうのだ。

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「トク」というのは、意識的な思考をすると「トク」であると判断できるようなことなのだけど、それが、ほんとうに「トク」なのかどうかは、わからない。 

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「ソンな感じ方より、トクな感じ方のほうがいでしょ」と言って、「トク」な感じ方に切り替えればいいというようなことを言うわけだけど、ちがうのだ。

ちょっと、努力すれば切り替えられるような話になっているのだけど、意識的には切り替えられない部分があるのである。

そして、たとえば、「トク」な感じ方をしているポジティブな教祖だって、じつは、頑固に、自分の感じ方にこだわって生活をしているのである。

はっきり言えば、「トク」な感じ方をしている教祖だって、自説を批判されたら、おこるのである。自分の考えのなかで、腹がたつポイントというのがあるのである。

これ、まるで「トク」な感じ方をする教祖が、いい人のように語られてしまうのだけど、いい人かどうかわからない。

ともかく、ソントク論になってしまう部分があるのだけど、それがちがうのだ。じつは、これは、ソントク論じゃない部分が、たくさん、ある。

●「予言成就型」■言霊※2025/09/24 0:12

 夢や希望に関しては「予言成就型」なのである。

「言った」から「現実化する(だろう)」ということなのだ。他人のことだと、自分のことではないので、「予言成就型」になってしまうのである。

相手が、くるしい経験をしたのは「くるしい」と言ったからなのだ。言霊主義者の頭のなかでは、そうなってしまう。

相手には、相手の一倍速の経験がある。

その一倍速の経験のなかで、感じたことがあるのである。それを、言霊主義者は、相手のことだからと、無視してしまう。相手が一倍速で経験して、その結果、そうなったということもある。ところが、言霊主義者は、相手のことだからと、「経験の結果」を否定してしまう。言霊主義者にとっては「そんなことはない」のだ。

一倍速のプロセスのなかでつかれたって、相手がつかれたのであれば、そんなことはないので、「元気だ元気だ」と言えば、すぐに、元気になると思っているのである。

言霊主義者は、思っているのである。何度も言うけど、相手が経験した「つかれるプロセス」を言霊主義者は、経験していない。どうしてかというと、相手の経験であって、自分の経験ではないからだ。

自分の経験でないことは、平坦な言葉で表現した部分しか受け取らないのである。背後にあるほんとうの経験について(言霊主義者は)考えることができないのである。

どうしてかというと、相手の経験だからだ。

平坦な言葉で表現した部分が、言霊主義者にとっては、「すべて」なのである。そのことに関係する、「相手の経験」の「すべて」なのだ。

夢や希望に関しては、基本的に、かなってほしいことだから、「予言成就型」になるのだけど、相手のことだと、過去にもどって、そういう言ったから、そうなったというかたちの「予言成就型」になるのである。

とりえず、「他人・ネガティブ予言成就型」と言っておこう。

神経質な人だと「自分・ネガティブ成就型」になってしまう場合もある。「なにか(自分が)ネガティブなことを(気がつかずに)言ってしまったのではないか」ということが、気になるタイプの人がいる。

しかし、たいていの言霊主義者は「自分・ネガティブ成就型」の思考をしない。

多数派の言霊主義者は、自分の身に、一倍速で起こったことは、言霊的な思考を一切合切しないのである。

「相手がこういうことを言ったから、腹がたった」と思うだけなのである。自分がさきに「相手がこういうことを言う」ということを言って、その「予言」が成就されたとは、夢にも思わないのである。

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神経質な言霊主義者の場合「自分・ネガティブ成就型」になってしまう場合もあるのだけど、神経質な言霊主義者がいつも「自分・ネガティブ成就型」の思考になってしまうのかというと、そうではない。

神経質な言霊主義者も、相手の対応におこっているときは、「予言成就」型の思考をしないのである。

この場合の予言成就というのは、自分が言ったので、言ったことが現実化したというような考え方のことである。

ごく自然にはじまる、相手とのトラブルは、別に、予言したことではないのだ。

ごく自然に、トラブルが発生するわけである。

その場合、「自分が言ったかそうなった」「自分が言ったから、そういうトラブルが発生した」とは考えないのだ。

神経質な言霊主義者が「自分・ネガティブ成就型」の思考になってしまうときは、神経質な言霊主義者が不幸を感じているときなのである。人生のなかでの「不幸」というものに思いを巡らしているときに、「自分・ネガティブ成就型」の思考になってしまうことがあるのだ。

しかし、普段は、ほかの言霊主義者とおなじように、神経質な言霊主義者も、本人が「あたりまえだ」と思うことに関しては、「言霊の力」をまったく感じないのである。

2025年9月25日木曜日

●「うれしいうれしい」と言っても、うれしく感じない■言霊※2025/09/24 6:05

自己責任論者であって、なおかつ、言霊主義者である人は、言霊理論を批判されると、腹をたててしまうのである。

ようするに、言霊理論を批判したやつが悪いと思っているのである。

自分が立腹した原因は、言霊理論を批判したやつが言霊理論を批判したからだと思っているのである。自分のことなら、この様(ざま)だ。

自己責任論じゃなら、すべては自己責任と考えるので、「言霊理論を批判された」ということも自己責任だと考えるはずだ。自分の身の上に起きたことは、すべて、自分の責任なのだから、当然、そうなる。

なんで、言霊理論を批判されたときは、エイリのせいで腹がたったと思うのだ?

エイリの発言は、腹がたつと思うのだ?

腹をたてる必要なんてないんだよ。

すべてが、自己責任だから、「エイリのせいだ」と思わなくていいんだよ。

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たとえば、自分が信じていることを否定されて腹がたったとする。事前に「自分が信じていることを否定されて腹がたつ」と事前に言わなかったとする。

言霊は、関係がないのである。

「自分が信じていることを否定されたら腹がたつだろ」と思うかもしれないけど、言霊の力によって「腹がたったわけではない」ということは、認識しておいたほうがいい。

うれしいことが起こったときもおなじだ。「これこれこういうことで、自分はうれしいと感じる」と、事前に言わなかったとする。

けど、一倍速で体験しているプロセスのなかで、自然に「うれしい」と感じることがあったのだ。これは、言霊の力によって、引き起こされた感情ではないのである。

「うれしいうれしい」と事前に言ったから、うれしいと感じたわけではない。プロセスのなかで、うれしいと感じたのである。

「あのときは、うれしかったなぁ」と思ったとする。思ったときに、ちょっとだけ「うれしくなった」とする。このうれしさは、うれしかったことを思い出してうれしく感じただけだ。

事前に、うれしいと感じた出来事がほんとうに、あったのだ。

言霊理論が否定されたあと、「じつは、それは、うれしいことなのだ」と受け止め方をかえて、「自分が信じていたことを否定されたときのこと」を思い出して、「うれしいうれしい」と言っても、うれしくならないだろう。

「うれしいうれしい」と言って、うれしくなる場合は、実際にうれしいことを経験したということが、「さき」なのである。

うれしいことを、実際に(過去において)経験したので、そのときのことを思い出してうれしく感じただけなのである。なにも経験がなかった場合、なにがうれしいことなのかわからないから、どれだけ、「うれしいうれしい」と言っても、うれしくならないのである。

何度も言うけど、「経験」のほうがさきだ。

経験がさきにあって、そのあと、「うれしい」という言葉と、その感情が、むすびつくということが起こり、その、さらにあとに「うれしかったこと」を思い出すと、ちょっとは「うれしい気分になる」ということが発生するのである。

思い出したときのうれしさというのは、体験しているときのうれしさとはちがうのである。体験しているときのうれしさのほうが、たぶん、うれしさの程度において高いのである。

思い出しているときに感じるうれしさは、ほんとうに体験しているときのうれしさよりも、たぶん、うれしさの程度において、低いのである。

「うれしい」と言って呼び起こされる「うれしさ」が、ほんとうに「うれしさ」を感じているときのうれしさとおなじであるはずがないのである。体験しているときのうれしさのほうが、「うえ」なのである。

平和な状態で「あのときはうれしかったなぁ」と思い出しているときは、うれしさのほかに安心感を感じるかもしれない。

もし、かりに、その記憶に関係があるだれかが、死んだ状態で「あのときはうれしかったなぁ」と思い出しているときは、うれしさのほかに、さみしさを感じるかもしれない。

たとえば、だれかとの、うれしい体験があったとする。けど、そのだれかが、死んでしまったとする。そういう場合は、うれしいことを思い出しても、さみしさを感じるかもしれないのである。

これは、認知とメタ認知が関係している。

文脈は大切なのである。

文脈を考えずにただ単に、言ったことに反応すると考えているようではだめだ。

特に悲しいこともなく、特にうれしいこともない、中立的な状態を考えて、その中立的な状態のときは、「うれしいうれしい」と言えば、うれしくなったような気分がするということは、あるかもしれないけど、つねに、うれしくなったような気分がするかどうかはわからない。

ようするに、「うれしいうれしい」と、中立的な状態で言ったにもかかわらず、ぜんぜん、うれしくならず、むしろ、さめた気分になってしまう場合だってあるのだ。

ともかく、直前の出来事を無視して、「うれしいうれしい」と言えば、直前の出来事に関係なく、うれしくなるというのは、どう考えてもおかしいのである。

ぼくに、言霊理論を否定された言霊主義者たちは、ぼくに、言霊理論を否定された直後に、「うれしい、うれしい」と言っても、うれしく感じないと思う。

ぼくの経験の範囲で言うと、みんな腹をたてていたのである。

腹をたてているときに「うれしいうれしい」と言うと「ほんとうにうれしくなる」のかどうか、言霊主義者は自分で、実験してみればいいよ。

それから、言霊主義者は「過去は関係がない」と思っているけど、「うれしかったこと」を思い出すというのは、過去が関係している行為だということに、注意を向けるべきだ。

言霊主義者は、相手の過去を、ごく自然に、否定してしまう。

相手には「理由」があるのに、相手の理由は無視してしまうのである。

「言霊理論を否定されたから」腹がたったとする。

これだって、過去の話なんだよ。過去の出来事なんだよ。

言霊理論を否定されたあと、腹がたっているんだよ。

腹がたった理由は、言霊理論を否定されたからなんだよ。

言霊理論を否定される前に、腹がたっていない状態で「腹がたつ」と言ったから、腹がたつという言葉に宿っている、言霊の力によって、腹がたったわけじゃないんだ。

あるいは、言霊理論を否定される前に、腹がたっていない状態で「腹がたつ」と言ったから、言霊の力が、ぼくに働きかけて……その人の前で……言霊理論を否定するということを、ぼくにさせたのではないのだよ。

ぼくにはぼくなりの、理屈と理論があるんだよ。言霊理論はまちがっていると感じる出来事があったんだよ。

ぼくに言われて、腹をたてた言霊主義者が、ぼくに言われる前に、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」と言ったから、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」という言葉に宿っている言霊の力によって、「エイリに言霊理論を否定されて腹をたてる」ということが、現実化したわけじゃないんだよ。

●あいつがおしつけてきたのは、きちがい騒音だけじゃない■騒音※2025/09/25 11:26

 睡眠系のトラブルというのは、けっこうある。もとをただせば、睡眠系のトラブルだというトラブルが、いっぱいある。

頭がはっきりしていない状態で、対応しなければならなくなることが、いっぱいあった。

これがつらいのである。

ヘビメタ騒音で、どれだけ俺がさけるように頑張っても、睡眠系のトラブルが発生した。これは、ぼくの人生のなかで、でかいことだ。

やりようがないし、繰り返されたことだ。やりようがないというのは、きちがいヘビメタ騒音によって、引き起こされる「眠れない状態」を、きちがいヘビメタ騒音に長時間さらされたあとに、どうにかすることができないということだ。

おしが強い相手に、睡眠不足状態で対応すると、かならず、トラブルが発生するのである。

おしが強い相手というのは、頭が悪いやつらばかりなんだよ。

俺がひとこと言ったら理解しろ。

俺が、ひとこと「ここはやらなくていい」と言ったら、それで、引きさがれ。

たとえば、棟梁が、パティをとってしまったときもそうなんだよな。棟梁は、雇い主である俺の言うことを聞かないで、自分がやりたいことをやってしまう。これも、こまるよな。

これ、睡眠不足で、頭がはっきりしていない状態で、対応していると、ものすごく、腹がたつ状態になる。ぼくが「やらなくていい」と言ったら「やらないでほしい」ということだから、理解して、やめてくれればいいのに、やってしまうんだよなぁ。

ともかく、睡眠不足で、こういう、「押しが強いやつ」と対面しているときの気分が並じゃないのである。

きちがい兄貴も、俺が鳴らさないでくれと言っているのに、「押し切ってやってしまう」ようなやつなんだよな。ある意味、似ている。

きちがい兄貴のきちがい行為で引き起こされた睡眠障害で、寝不足で対応していると、不愉快な出来事が多くなるのである。

そもそも、睡眠不足で、体がだるい状態で、注意力が必要なことをやるということ自体が、くるしいことなのである。

睡眠不足で、無理やり、注意力を高めて、相手と対面しているのだから、それ自体が、不愉快なことなのである。

そして、きちがいヘビメタが鳴ってしまったら……きちがいヘビメタが鳴っている毎日を、一倍速で経験してしまうと……だれと会っているときも、そういう状態になってしまうのである。

*     *     *

不足で、ろくでもないやつの相手をしているときの状態が並じゃないのである。不愉快な状態が並じゃない。ろくでもないやつじゃないにしろ、睡眠不足で、だるいときに、対応しているときの気持ちが並じゃないのである。

*     *     * 

睡眠不足のもとが、きちがい兄貴の騒音なのである。これ、自分が、ゲームをやりたくて、睡眠不足になったという場合とは、ちがうのである。

自分が、本を読みたくて、睡眠不足になったのとは、ちがうのである。

きちがい兄貴の騒音で、不可避的に、睡眠不足になってしまうのである。きちがい兄貴の騒音が、体に残っている状態なのである。睡眠不足で、相手に対応しているとき、ぼくのからだに、きちがい兄貴の騒音から発生した「つかれ」が、ものすごく、残っている状態なのである。

「睡眠不足」と言ったって、きちがい兄貴がやっていることで、強制的に発生した睡眠不足には、自分がやりたいことをやって、夜更かしをした場合とは、ちがう効果があるのである。

ちがう。ちがう。ちがう。

気分がちがう。ぜんぜん、ちがう。

最初から、気持ちの持ちようがちがうのである。

きちがい兄貴が、睡眠不足まで、おしつけてきたのである。

あいつがおしつけてきたのは、きちがい騒音だけじゃない。きちがい騒音だけじゃないんだよ。

●「理由の否定」■言霊※2025/09/22 12:04

言霊主義者は、まったく理解していないけど「理由の否定」という問題があるんだよ。

「理由の否定」だけではなくて、「努力の否定」もある。

たとえば、言霊主義者は、こまっている相手に「つらいと言うからつらくなる」と言ってしまう。その相手が、個人的に体験した「理由」を否定しているのである。

ほんとうの理由を否定して、「つらいと言ったことが」つらさの理由だと言ってしまっている。

たとえば、言霊主義者は、言霊理論を否定されれば、腹をたてる。腹がたつ理由は、言霊理論を否定されたということなのである。

ところが、言霊理論にしたがうと「腹がたつと言うから腹がたつ」ということになってしまう。実際に、言霊理論を否定されたという事実は、まったく関係がないことになってしまうのである。

ようするに、言霊主義者は、実際の出来事によってしょうじた「感情」を、感情がしょうじたあとに、感情がしょうじたから発した言葉のせいにしてしまうのである。

感情がしょうじたあと、その感情について、のべたとする。

「腹がたつ」と言ったとする。

そうすると、ほんとうは、感情をうみだした理由があるのに、感情の表現が理由で、その感情がしょうじたというクソ理論を……言霊主義者はクチにするのだ。

感情がしょうじたあとの、感情に関する「表現」が理由ではないのだ。感情をしょうじさせた出来事がある。

その出来事を、全部、無視してしまうのだ。あるいは、その出来事の意味を、全部、否定してしまうのだ。

「理由の無視」が前提にあるので、言われたほうは、「むっ」とするのだ。

しかし、こういうことを、言霊主義者に言っても、言霊主義者は、否定する。

最初に、相手の現実的な理由を否定しているのは言霊主義者だ。

実際に発生した出来事によって、感情が発生するのである。

ところが、実際に発生した出来事を無視してしまう。実際に発生した出来事は、感情の理由にならないという前提でカルト理論をクチにするのである。

ところが、自分が一倍速で経験したことだと、そんなことにはならないのである。

実際に発生した出来事によって、感情が発生するのである。言霊主義者でも、日常生活において、出来事が発生している最中や、出来事が発生したあとに、具体的な感情が発生しているのである。それを、言うかどうかは、別の問題だ。

けど、その感情について、言霊主義者が、なんらかのことを言ったとしても、言霊主義者は、「言った」から自分がそう感じたとは、思わないのだ。

これ、ちゃんと、感情が発生する理由があるときは、言霊主義者だって、出来事の発生のあと、出来事に対応した感情が発生して、さらにそのあとに、出来事に対応した感情について、クチにするのである。

たとえば、言霊理論を否定されたという出来事が発生して、そのあとに、腹がたつという感情が発生して、「腹がたつ」と言うのだ。なんの理由もないのに、急に、「腹がたつ」と言ったあと、言霊理論を否定されるという出来事が発生して、腹がたったわけではない。

言霊理論を否定されたのがさきなのである。言霊理論が否定されるという出来事が発生する前に、言霊主義者が、勝手に「言霊理論を否定されて、腹がたつ」と言って、そのあとに、予言が成就される形で「言霊理論を否定される」ということが発生して、その結果、腹がたったわけではない。

「腹がたつと言うから腹がたつ」という理論だと、出来事とはまったく関係なく、「腹がたつ」と言って、腹がたつと言った結果、実際に腹がたったのだということになる。

ようするに、出来事の発生が、本当の理由なのに、ほんとうの理由は、完全に無視されてしまうのである。

どうして、腹がたつという感情が発生したのか?

自分が信じている言霊理論が否定されたからなのである。

実際に、自分が一倍速で経験している場合は、ちゃんと、理由があるのである。ちゃんと、感情を発生させる出来事があって、その出来事のあとに、感情が発生しているのである。

その出来事の最中に、感情が発生する場合もあるけど、これは、出来事の区切り方が問題なのだ。大きな出来事のなかに、小さな出来事が複数個あるとする。

最初の小さな出来事に対応した感情が、しょうじたのである。けど、大きな出来事を、出来事の単位だと思っている場合は、出来事の最中に、感情が発生したと思うのである。

けど、理由としては、出来事はすでに完結しているのである。感情をうみだした時点で、その出来事は、いちおう、完了している。

相手が話をしたあと、腹がたったのではなくて、相手が話している最中に腹がたったとする。話をするいうことを、ひとつの出来事として考えると、相手が話している最中に、腹がたったのだということになる。

しかし、ひとひとつの「話」に注目すると、相手は、すでに、「腹がたつ」なんらかのことを、すでに言っているのである。だから、自分にとって「腹がたつ」ことを、相手が言ったということは、完了している。

全体の話を、一区切りだとすると、「途中で」腹がたったということになり、ひとつの腹がたつ話を、一区切りだとすると「話が完了したあとに」腹がたったということになるのである。だから、どこまでで、区切るかということが問題になる。

2025年9月24日水曜日

●「いつかかなう系」の言い方は、可能性を温存できる言い方なのだ■言霊※2025/09/22 10:56

たとえば、ポーカーにおいて四のワンペアは、けっこう、弱い役だ。

けど、三のワンペア、二のワンペア、ブタには、勝てる。だから、勝つ場合もけっこうある。負ける場合のほうが多いのだけど、勝つ場合もそれなりにある。

その場合、四のワンペアの持ち主が「勝つ」と言ったとしよう。そうしたら、勝ったとする。もちろん、勝負の前に「勝つ」と言ったことは、関係がない。本人の役と、その場にいた人の役で勝敗が決まるので、四のワンペアの持ち主が「勝つ」と言ったことは、じつは、勝敗には関係がない。

もちろん、これは、駆け引きの部分をぬかした話をしているわけだから、駆け引きは関係がない。まあ、実際には、手札を一度はかえられるわけだし、駆け引きだってある。

ブタだって、ずっとレイズして、相手がフォールド(ドロップ)したら、それで勝ちだ。

けど、「生まれたときに配られたカードで勝負するしかない」と言うときの「生まれたときに配られたカード」について、言及しているわけ。

まあ、「やりようはある」と考えて、どの方向でがんばるかということを決めることができるということについては、別の話として取り上げることにする。

なので、この話のなかでは、生まれたときに、一度だけカードが配られて、その役が一生かわらないという前提で話をすすめる。

問題なのは、言霊主義だと、「勝つ」と言ったから勝てたと思ってしまうことだ。こういうことが一度でもあると、信心深い人は「言霊理論は正しい」「言霊は絶対だ」と思ってしまう。

ほんとうは、勝つと言ったあと、負けることもあるのに、それは、ガン無視なので、いつも勝っているように誤解をしてしまうのだ。

「勝つことができる」と言ったあと、勝った場合も「できると言えばできる」ということになる。「できると言えばできるというのは、正しい」ということになる。

「勝つ」と思って、勝負をしたら勝ったとする。そうしたら、『思いは現実化する』と思ってしまう。『現実化しなかった思い』のことは、わすれてしまう。

そうすると、「勝つと言えば勝つ」「できると言えばできる」「思いは現実化する」と、三のワンペアをもっている人、二のワンペアをもっている人、役をもっていない人には言えるということになる。

正しいことを言っているつもりになっているのである。

「言霊は絶対だ」「言霊の法則は正しい」「思いは現実化する」……本気で信じて、ドヤ顔で、説教することができるようになるのだ。

言っておくけど、四のワンペアは、弱い役だ。上中下の三段階を考えるなら、下に属する役なのだ。問題なのは、下の人も、精神世界セットについて言及することができるということだ。

精神世界セットが正しいと思うことができるということだ。

けど、精神世界の人たちが、一倍速で経験していることについては、精神世界で言われることセットとは、まったくちがった判断をしているのである。

そして、もし、精神世界で言われているとが正しいなら「四のワンペアは、四のワンペア以外のすべての役に勝つ」と言えば、「四のワンペアは、四のワンペア以外のすべての役に勝つ」ことになるのである。

言えば言っただけで、ルールなんて、いくらでも、かえることができるのである。

ところが、そうしない。「言ったところで、ルールはかわらない」と思っているから、言わないのだ。

ようするに、「言えば、言ったことが現実化する」とは思っていないのである。「言霊には、ルールを書き換えるような力はない」と思っているのである。言ったところで、ルールがわかるわけはないから、ルールをかえようとして、四のワンペアが、ほかの役とブタに勝つと言わないのだ。

言った通りになるなら、言えばいい。思っただけで、思った通りになるなら、思えばいい。それで、解決だ。

努力なんてしなくても、ほんとうは、思っただけで、全部の勝負に勝つことができるのだから、思えばいいのである。ところが、思わない。

思うことで、ルールをかえようとしない。思うことでルールがかわるのに、ルールをかえようとしない。「思ったところで、ルールなんてかわらない」と思っているから、「こういうふうにルールをかえよう」と思わないのだ。

そのくせ、『思いは現実化する』という考えたを放棄することもできない。

思霊主義者も、『思いは現実する』ということの意味が、『すべての思いは、一〇〇%の確率で現実化する』ということになるということに、気がつかない。

『思えば、思ったことが現実化する』というのは、『思えば、思ったことが現実化することもある』という意味ではなくて、『思えば、すべての思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する』という意味になるのだ。

ところが、「思えば、思ったことが現実化することもある」ということと「思えば、すべての思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ことを、区別しないのだ。区別できない。常に、あいまいなのである。

本人が、区別をしていないので、都合よく、まちがうのである。

だから、ドヤ顔で「思えば、思ったことが現実化する」「思いは現実化する」と言うことができるのだ。

ともかく、現実的な場面では、思霊的な解決方法を思いつかないのである。

夢や希望がかかわっている場合は、「いつかかなうはずだ」というような「いつかかなう系」のことが言われるのだけど、「いつかかなう」というのは、かなわないままになる可能性も含んでいる。

ようするに、「いつかかなう」と思いながら、死んでしまった場合、けっきょく、かなわないまま死んでしまったということになる。本人が死んだあとも、「いつかかなう」かもしれないことに関しては、「いつかかなうかもしれない」と思うことができるのである。

本人の夢が、本人の行為に限定されたものであれば、本人が死んだらおしまいだけど、もうちょっと抽象的なことだと、本人の行為に限定されないので、本人が死んでも「いつかかなうかもしれない」ということは、温存されるのである。

可能性はある。

「思いは現実化する」という理論が正しいなら、「瞬間移動できる」と思えば、瞬間移動できるようになるのだけど、「瞬間移動できる」と思っても、瞬間移動できるようにならないとする。

けど、「いつか、人類は瞬間移動できる(ようになる)」と思えば、その(思った人が)死んだあとも、可能性を温存することができるのだ。温存できる言い方になっている。「いつかかなう系」の言い方は、可能性を温存できる言い方なのだ。

けど、それは、すぐにはかなわないと、本人が思っているということを、暗示しているのだ。「いつか、思いが現実化する」ではなくて「一秒以内に思いが現実化する」ということにしてしまうと、一秒ジャストを含まず、一秒を経過したあとには、思いが現実化しなかったことがあきらかになってしまう。

それをさけるために「いつか」という言葉が使われる。

しかし、「思えば、思ったことが現実化する」ということが正しいなら、時間制限はないということになる。一秒以内に、これこれこういうことが現実化すると思えば、一秒以内にこれこれこういうことが現実化するのだ。

思ったことが現実化するのだから、一秒以内に現実化すると思ったことは、一秒以内に現実化するのである。

なにも、「いつかかなうだろう」と待っている必要はない。

その人……「これこうなる」と思った人が、じつは、「これこれこうならないだろう」と思っているから「いつかかなう系」の表現になってしまうのである。

「一時間以内に、自分は瞬間移動できるようになる」と思ったって、「自分は一時間以内に、瞬間移動ができるようにはならないだろう」とほんとうは、思っているから、「一時間以内に、自分は瞬間移動できるようになる」というような時間制限がある表現をさけるのである。

これ自体が、思いの力を、信用していないということを意味しているのである。

ところが、「思ったことが現実化する」とドヤ顔で(人には)言うのである。

この場合、「思ったことが現実化する場合だってある」という意味で「思ったことが現実化する」と言っているのだけど、「思ったことが現実化する」という言葉の意味は「すべての思ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということだから、本人が、まちがった意味で、「思いは現実化する」と言っているのである。

2025年9月23日火曜日

●「努力がたりなかったのだ」という決めつけを誘導するのである■努力※2025/09/23 16:21

「努力をすれば現実化する」という言い方もある。

DさんとEさんに登場してもらおう。

たとえば、Dさんが「Eさんがポジティブなことを言った」と受け止める努力をすれば、Dさんは「Eさんがポジティブなことを言った」と受け止めることに成功するのである。

成功しないのであれば、努力がたりなかったということになる。

しかし、ほんとうは、ちょっとでも努力をすれば、成功をするのである。努力をするということに関しても、ほんとうは、「努力をするという値」と「努力をしないという値」しかない。

「努力をするという値」と「努力をしないという値」の二値しかないのである。

ここにも、じつは、だましのたねがぶちこまれている。

努力をするということが、そもそも、一意には決まらないことなので、もっともっと、意味があいまいになる。

そのあいまいさは、「努力がたりなかったのだ」という決めつけを誘導するのである。

●自分が一倍速で経験したことに関しては、言霊のせいにしない■言霊※2025/09/22 10:29

たとえば、Aさんは、言霊主義者だとする。

人には「つかれると言うからつかれる」ということを言う人だ。

Aさんが、一五年間のあいだ、長距離通勤をしていたとする。一日のなかで、長距離通勤でつかれたと思ったことがあるとする。そして、Aさんが思わず「つかれた」と言ったとする。

Aさんは「つかれたと言うからつかれるのだ」とは思わずに「長距離通勤でつかれた」と思うのだ。 自分が一倍速で経験していることに関しては、理由があきらかだから、言霊思考にならないのである。

まず、自宅から最寄りの駅まで行く必要がある。歩くという行動をしなければならない。バスに乗る場合は、さらに、バスに乗るという行動をしなければならない。バスから降りたあと、駅のホームまで移動するときも、たいていの場合は、歩いて移動することになる。まあ、一部、エスカレーターとか動く歩道などがあるもしれない。

けど、たいていの場合は、歩いて移動する。

歩くという行動が必要なのだ。

電車に乗ったら乗ったで、電車の中で耐えなければならない。満員電車なら、圧迫されるということに耐えなければならない。ただ立っているだけでも、つらいので、耐える必要がある。

座れる場合も、混雑してきたら、ちぢこまった姿勢になるので、耐える必要がある。

ともかく、耐えることの連続なのである。

電車から降りたあと、駅構内を歩かなければならない。会社付近の駅で降りたあとも、歩かなければならない。

じつは、「耐える」ということも、行動としてとらえることができる。

まあ、朝ほどは混雑していないと思うけど、帰りも、ほぼおなじことを繰り返さなければならない。一六年目に会社をやめて、長距離通勤もやめたとする。

「長距離通勤でつかれた」と言う場合、いちおう、一五年間の長距離通勤でつかれたということになる。

一五年間がひとつのかたまりとして意識される。

けど、一日のなかで、家に帰ったあと「長距離通勤でつかれた」と言う場合は、その一日がひとつのかたまりとして意識される。ようは、本人が、出来事をどういうかたまりとして意識するのかということは、その時々によってちがうのである。

一日のなかにも、「それ」にかかわる、もっと、小さなかたまりがあるのである。

Aさんが、一六年目に、「長距離通勤でつかれた」と言ったとしよう。そのとき、言霊主義者のBさんが「つかれると言うからつかれるのだ」と言ったとしよう。

その場合、Aさんは、言霊主義者だけど「長距離通勤でつかれたのだ」と言いたくなるのではないか。自分が一倍速で経験した「ネガティブなこと」に関しては、理由がはっきりしているので、その理由が頭に浮かぶのである。

Aさんの体験は、Aさんの体験であって、Bさんの体験ではない。

Bさんにとっては、「Aさん」が「長距離通勤でつかれた」と言ったということが、Aさんの長距離通勤に関する体験のすべてだということになる。そして、言葉の意味はわかるので、Aさんが長距離通勤でつかれたのだということは、わかるのである。

しかし、他人事だと、言霊思考になってしまうので、Aさんが「つかれた」と言ったから「つかれたのだ」と結論付けてしまうのである。

Bさんは、Aさんではないので、Aさんが経験してきたことを一倍速で経験してきたわけではない。

AさんがBさんに言って、つたわることは、「一五年間の長距離通勤でつかれたということ」だけなのだ。Aさんが一五年間で経験したつかれが、Bさんにそのまま伝わるわけではない。

Bさんは言霊主義者だから、「言ったから、言ったことが現実化したのだ」と思ってしまう。

Aさんも、言霊主義者なので、ほかの人のことについては、ほかの人が「言ったから」そうなったと思ってしまうのだ。

ほかの人が経験したことに関しては、自分(Aさん)は経験していない。

だから、ほかの人が(ほかの人の経験について)短く語った言葉が原因で、ほかの人がそうなったと、自動的に思ってしまうのだ。

視点がちがうだけで、言うことが、がらりとかわってしまうのである。

言霊主義者は、自分が一倍速で経験したことに関しては、言霊のせいにしない傾向が強い。

言霊のせいにしないのは、自分にとって「あきらかなこと」だからだ。

Aさんが、帰りの電車の中で「つかれた」とつぶやいたとき、Aさんには、「つかれた」理由がわかっている。

なんの理由もないのに、突然「つかれた」と言って、言ったあとに、言霊の力によって、つかれを感じたわけではないいうことがわかっている。

理由があって、つかれたと言ったということが、本人にはわかっている。理由は、自分が実際に体験したことだから、自分にとって、あきらかなのだ。

自分が実際に体験したことを通して、つかれがたまったということが、Aさんにとっては、あきらかなのだ。

Aさんの体験は、Aさんの体験であって、ほかの人の体験ではない。だから、ほかの人が体験したときのように「言ったからそうなった」とは思わないのだ。 

つまり、ひとごとだと、わからなくなってしまうのだ。

他人の体験だから、Aさんには、わからなくなってしまう。そうなると、言霊思考になってしまうのである。

ひとごとだと、相手が言ったことが、クローズアップされて、相手が実際に体験したことが、フェイドアウトしてしまうのだ。

なので、相手が言ったということに注目して、「言ったからそうなった」と……言霊主義者である……Aさんは、相手に言ってしまう。

Aさん本人のことなら、自分にとって理由があきらかなので、言霊思考にならないのである。

●「相手がこう言った」ということが、「相手がそうなった」ことの理由だ■言霊※2025/09/22 2:50

たとえば、名前だけ店長は、努力をしてきたのである。できるように、努力をしてきた。ほんとうに、ちゃんと、くるしい思いをしてきたのである。

ところが、言霊主義者は「つらいと言うからつらくなる」と、名前だけ店長が、一五(じゅうご)年間にわたって毎日続けた努力を無視してしまう。

言霊主義者が見ているのは、「相手がつらいと言った」ということだけなのである。相手の身に起こったことは、ガン無視なのである。相手がどういうプロセスをへて、「つらい」という言葉を発するようになったのかということは、全部、無視しているのである。

言霊主義者が、相手について認識したことは、相手が「つらい」と言ったことだけだ。

だから、すぐに、言霊思考になって「つらいと言うからつらいのだ」という言葉を発してしまう。

自分のことだと、自分が経験したことだから、自分が「つらい」と言った場合は、「つらい」という言葉を発するまでのプロセスがどういうものか(本人が)知っているのである。

だから、自分がつらいと言ったときは、なんの理由もないのに、急に「つらい」と言って、つらくなったとは考えないのだ。

ちゃんと、つらいと思うような出来事が発生して、発生したあとにつらいと感じて、つらいと言ったということが、本人にはわかっている。

プロセスを省略していないのだ。

プロセスを無意識的に重視している。

(1)出来事の発生、(2)出来事に関する感情の発生、(3)出来事に関す感情についての発言という順番を守って、出来事の感想を言っている。

これ、出来事が発生したあとに、出来事に関連した感想を言っているのである。

突然、出来事に関係なく、「つらい」と言って、そのあと、実際に「つらい」と感じるような出来事が発生したわけではないのだ。

完全に、順番がくるっている。

言霊主義者が認識することの起点が、問題なのだ。言霊主義者が相手について認識したのは「相手がなんらかのことを言った」ということだ。

だから、相手にそういうことが起こったのは「言ったからだ」と思ってしまうのだ。時間や順番は、関係がないのである。

これも、言霊感覚が、幼児的万能感から発生しているということと関係していると思われる。自分中心思考で、相手のことに関する理解は、非常に限られたものになってしまうのである。

「相手がこう言った」ということしか、言霊主義者は理解していないのである。

だから、「相手がこう言った」ということが、「相手がそうなった」ことの理由だと考えてしまうのである。

何度も言うけど、自分中心思考だから、自分が実際に経験したことに関しては、最初から、理由があきらかなので、言霊思考にはならないのである。

言霊思考になる場合は、夢や願望が関係しているときだけなのである。

しかも、たいていは「いつかかなう」系の夢や願望なので、時間制限がないのである。

言霊主義者にとっては、「いつか、そのうち、かなえばいいもの」が言霊思考になるものとして選ばれている。

そして、言っても思い通りにならないことは、無視してしまう傾向がある。

言っても思い通りにならないことに関しては、最初から、言霊的な解決方法をこころみない傾向が言霊主義者には、ある。

その場合は、言霊主義者も「言ったって、言った通りになるはずがない」と思っているのである。しかし、「言ったって、言った通りになるはずがない」と日常的に考えて、行動しているということは、言霊主義者の意識にはのらないのだ。

そのことに関しては、言ったって言った通りになるはずがないと普通に思っているということが、言霊主義者にはわからない。

意識的に、明確に「言ったって言った通りになるわけではない」と思っているわけではなくて、明確なのだけど、無意識的に、「言ったって言った通りにならなくてあたりまえだ」と思っているので、そもそも、言葉としてあらわれないのである。

最初から、「そうみなしている」という態度になる。「いつかかなう系」の夢は、「言えば、言ったことによって、夢がかなう」という信念によってささえられたものになる。

夢や願望は、言霊思考がプラス向きに働くことなのである。

言霊主義者が、言霊を信じているのは、夢やが願望がかなうと、信じたいからなのである。

言えば、言っただけで、願いがかなうはずなのだから、言えば言っただけで、願いがかなうはずなのである。

2025年9月22日月曜日

●だから、はさまれてこまる■騒音※2025/09/22 21:48

あんなことをやられて、「ウツ」が残らないわけがない。

残らないわけがない。

あーー。いまの時間も鳴ってたなぁ。

きちがい兄貴の感覚がおかしい。

きちがい兄貴の感覚がおかしい。

普通の人がやらないことを、きちがい的な意地で、きちがい兄貴がやりやがった。これ、きちがいだからやり方がきちがいになってしまう。きちがい的なやり方になってしまう。

きちがい的なやり方でやられたら、どれだけこまるか、きちがい家族と一緒に住んだことがないやつらは、わからない。実際にやられていないから、わからない。実際に、やられたことがないからわからない。

うちのなかにいる、きちがい家族の状態なんてわからない。どれだけ狂った感覚をもっているか、わからない。

これ、ほんとうに、やっていることが、そもそもおかしいんだよな。

きちがい兄貴がやっていることがおかしい。

けど、きちがいだから、どれだけ言っても、おなじ反応が返ってくるんだよ。そのまま、押し通す。きちがいだから、あんなにでかい音で鳴らしていて、「普通」だと思っている。

兄貴の友達が、兄貴の部屋に入って、きちがい兄貴が普段鳴らしている音でヘビメタを聴いたとき……「自分はこんなにでかい音で鳴らしたことがない」「家族の人が文句を言わないの」「家族の人がかわいそうだよ」と言ったんだよ。

きちがい兄貴は、きちがいだから、きちがい兄貴の友達が言ったことが、ほんとうに、わからないのだ。まるで、気にしない。きちがいそのもの……。

これ、きちがいおやじとおなじ態度なんだよ。きちがい兄貴は、きちがいおやじとおなじ態度なんだよ。

きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがいヘビメタを、こだわってこだわってこだって、こだわって、こだわって、こだわって、めちゃくちゃにでかい音で鳴らし続けた。

けど、きちがいだから、「でかい音で鳴らした」という記憶がまったくない状態なんだよ。

きちがい的にでかい音で鳴らしているとき、「でかい音で鳴らしている」という認識が、一切合切ない。

そういう……認めたら「鳴らせなくなってしまうようなこと」は、きちがい的なしくみで認めないのだ。

そして、この「きちがい的なしくみで認めない」ということが、今度は、ほかの人……一般人……普通の人にはわからないのだ。

どれだけこまるか、まったくわかってない。普通の人は、これがどれだけこまることか、まったく理解がない。

きちがい兄貴のように……今度は……一般人が……「俺が毎日やられていること」を、無視するのである。

どれだけこまるか、一般人は、ほんとうにわかっていないのである。

だから、俺はもっと、こまるのである。

きちがい兄貴にやられてこまって、きちがい兄貴にやられるとどれだけこまるかということが、わかっていない一般人に、無理解ぶりを発揮したことを言われてこまるのである。

一般人は一般人で、「むりなことを言っている」つもりが、ほんとうに、まったくないんだよ。

だから、はさまれてこまる。

*     *     * 

普通の家だったら、一日だけでも「だいもんだいになること」なのに、きちがい兄貴も、きちがい親父も、きちがいだから「もんだいにならない」のだよ。

おかあさんは、きちがい兄貴やきちがい親父とは、まったくまったまったく、ちがった意味で、普通の人ではないのである。

けっきょく、きちがい兄貴が、普通の家だったら、大問題になることを、きちがい感覚でやり通しているのに、俺がさわいでいるだけだということなってしまう。

「やめろ」「やめろ」と俺がさわいでいるだけになってしまう。

それだって、普通の人の感覚で言えば「おかしなこと」だから、普通の人は、俺が「嘘を言っている」と思ったりする。

これは、普通の人の約四割が、俺が言っていることが嘘だと思う……ということだ。

約六割は、「鳴ってたって、関係がない」と思うのである。「そんなのは、家族で相談すればいい」と思うのである。

●「深層心理では現実化してほしくなかったから、現実化しなかったのだ」■思霊※2025/09/22 2:55

『思いは現実化する』ということについて考えてみよう。『思い』は現実化するのである。『思いではない思い』はないので、『すべての思い』が、現実化するのである。

「現実化する」と言っているのだから、「現実化しない」ということはない。

現実化すると言ったら一〇〇%現実化するのである。

けど、思ったのに現実化しないという(出来事の)集合があったとする。その集合についてどう考えるかいうことが問題になる。

基本的には、「思う力がたりなかったのだ」とか「深層心理では現実化してほしくなかったから、現実化しなかったのだ」ということが言われるようになる。これはもう、マニュアルで決まっているように決まっているんだよ。

「うまく、イメージすると現実化するけど、うまく、イメージすることができないと現実化しない」……という場合は、ようするに、思いは現実化しないのである。

思いの内容をうまくイメージすることができる人の場合は、思いの内容が現実化するけど、思いの内容をうまくイメージすることができない人の場合は、思いの内容が現実化しないのであれば、最初から「思いは現実化する」と言えないのだよ。

ようするに、へたくそだと、『思いは現実化しない』のである。うまくイメージできる場合だけ、現実化するのである。

それならば、『思いは現実化する』というのは『思えば、すべての思ったことが一〇〇%現実化する』という意味にはならない。

これが、「たりてない場合」の話だ。

*     *     * 

「深層心理では、現実化してほしくないと思っているから現実化しない」ということについて考えてみよう。

言ったことですら、言ったかどうかあいまいになるときがある。思ったかどうかについては、よくわからないのだ。そりゃ、寝ているあいだに思ったことまで含めると、自分が「それ」を思ったのかどうかわからないということになる。

「思ったこと」と「思わなかったこと」の境界が、そもそも、あいまいなのだ。

人間の場合はそうなる。

そこに、「本人が気がつかない」という意味で「深層的な思考」を持ち込むと、本人が気がつかないうちに思ったというようなことが、言えるようになる。

けど、これは、フロイトの無意識とはちがうんだよ。これに関しては、以前書いたので、今回は書かない。

問題なのは、「深層心理では、現実化してほしくないと思っている」と言われたとき、「深層心理で現実化してほしくないと思っていない」ということを、突き通せる人がどれだけいるかということだ。

自分が思ったか思わなかったかの問題なのに、「自分は、深層心理でも、現実化してほしくないと思ってない」と言いきれる人がすくないのである。

そして、もし、「自分は、深層心理でも、現実化してほしくないと思ってない」と言いきってしまうと、『思いは現実化する』という「便利な考え方」を放棄することになるので、『思いは現実化する』という「便利な考え方」に「未練」がある人は、なかなか、「自分は、深層心理でも、現実化してほしくないと思ってない」と言いきることができなくなる。

思いは現実化するという考え方は便利な考え方なので、思いを現実化させたい人(本人)にしてみれば、思いは現実化するという考え方を否定したくないという気持が働くのだ。

これも、トリックなんだよ。

じゃあ、他人である人が、どうして、「深層心理では現実化してほしくないと思っている」と言いきることができるのか?

そんなもの、知りはしないのさ。

これは、『後出し思考』がかかわっている。後出しで、言っているだけだ。

『後出し詐欺』なのである。

ほんとうは、思いに関係なく、思いの強さに関係なく、深層心理で思ったかどうかに関係なく、思っただけで(思った通りになる)のだけど、思わなかったから(思った通りにならなかった)のだと言っているだけだ。思った通りにならなかったという結果が出たので、「思わなかったのだ」ということにしただけだ。

「ほんとうは思っていなかったのだ」という言い方になる。結果にあわせて、現実のほうを言いかえたのだ。

また、DさんとEさんに登場してもらおう。

たとえば、Dさんが、「Eさんはこれ以降、愚痴を言わない」と思ったとする。ところが、次の回に会ったとき、「Eさんが、愚痴を言った」とする。

ようするに、思ったのに、そうならなかったのである。

この場合、そうならなかったということを起点にして考えると、「そうならなかったのだから」……「Eさんはこれ以降、愚痴を言わないとDさんが思わなかったのだ」ということになるのだ。

現実にあわせて、思ったかどうかを決めているだけだ。

現実にあわせて、逆算して、「思わなかった」と決めつけているだけなのだ。

この場合、「Eさんはこれ以降、愚痴を言わない」とDさんが思わなかったということになる。Dさんはじつは深層心理では「Eさんは、愚痴を言わない」と思わなかったということになる場合もある。逆にDさんは、じつは、深層心理では「Eさんは、愚痴を言う(だろう)」と思ったということにしてしまうのである。

もちろん、Dさんは『思いは現実化する』ということを考えて「Eさんは、これ以降、愚痴を言わない」と『確かに』思ったのである。事実、思ったのである。「Eさんに、これ以上、愚痴を言ってほしくない」と思って、深層心理でも「Eさんは、これ以降、愚痴を言わない」とDさんは思ったのである。

*     *     * 

深層心理で思わなかったのではなくて、うまく思えなかったのだという言い訳もある。

Dさんは、うまくイメージして思わなかったのである。うまくイメージして思えば、Eさんは、愚痴を言わなくなるのである。

「思い方」の問題にしてしまうのである。

「うまく思うことができなかったら」「思わなかったのとおなじだ」ということにしてしまうのである。

けど、うまく思わなかったにしろ、思ったのである。

ペテン師の言い訳だ。

なんで、気がつかないかな?

だまされているだけなんだよ。

*     *     *

深層心理でどうかというのは、Dさんにも半分ぐらいはわからないことであり、強く「こうなのだ」言われると、「そうなのかもしれない」とDさんは思ってしまうところがある。

Dさんは……過去における出来事の繰り返しにより……「Eさんが、愚痴を言うだろう」と思っていたから、「Eさんが愚痴を言ったのだ」と言われると、Dさんは、信心深い人なので、そう思ってしまう場合がある。

ようするに、「逆のことを思っていた」というケースだ。

深層心理で逆のことを思っていたから、逆のことが現実化したんだという言い方になる。

これだと、「そのまま」のことも「逆のこと」も、思ったから現実化したと言えるようになる。まあ、ペテン師の手口だ。

*     *     * 

ちょっとだけ、「思い」ということにのべておこう。

「思い」という集合と、「思いではないもの」という集合をわけたとする。

そうなると、「思い」であれば、「思い」という集合に含まれるということになる。「あの思い」も「この思い」も、「思い」なのであれば、「思い」という集合に含まれるのである。

だから、『思いは現実化する』ということが正しいのであれば、あの思いは、現実化するけど、この思いは現実化しないということはないのである。

その言葉は、「思い」であれば、現実化するということを言っているのである。

だれかの「あの思い」は現実化するけど、ほかのだれかの「あの思い」は現実化しないということはないということだ。

*     *     *

実際に「不愉快なこと」が発生した場合、潜在意識でそう思ったということになってしまうのである。あるいは、深層心理でそう思ったということになってしまうのである。どうしてかというと、『思いは現実化する』からである。

しかし、この前提がまちがっているのである。思ったことは、思霊ではない理由で、思ったあと、現実化することもあるし、現実化しないこともあるのだ。……じつは、これが正しい。

ところが、思えば、思ったから『思霊』によって、現実化するというのが、人をだますためのカルト理論なのだ。『思霊』というのは、ぼくの造語なのだけど、一般的ではない。『思いの力』という言葉を使ってしまうと、言霊のように魔法の力をもつ『思霊』と、意思の力をあらわしている『思いの力』がごちゃごちゃになってしまうのである。

これも、トリックのひとつだ。『思いの力』という言葉を使うと、普通の「意思の力」と魔法のような「意思の力」をごちゃごちゃにすることができるのだ。人間は「思って行動する」ことができるので、思って行動すれば、結果をえられることがある。

それと、魔法のような「意思の力」は別物なのである。

人間が自分のからだを使って、物理的世界において実行できることと、なにかすごい魔法のような力によって実行されることはちがう。なにかすごい魔法のような力というのは、物理法則をこえたものであって、神の力なのだ。

言霊理論の場合は、言葉に、言霊が宿るということになっているのだけど、思霊理論の場合は、思っただけで、自分の気持ち?に思霊が宿るということになるのだ。……だから、思霊が、神のような力で、実行してくれるのだ。……だから、現実化するのだ。

こういう理論なんだよ。

『思いは現実化する』という考え方のなかには、「自分の潜在意識が宇宙意識に届いて、宇宙意識が(自分の思いを)実行してくれる」という考え方がある。

宇宙意識という言葉を使っていない場合でも、じつは、宇宙意識のような神秘的な力によって、「自分の思い」が実行されるという妄想的な思考がある。

人間の普通の意思的な行動によって、それが現実化されるということを言っている場合と、宇宙意識のような神秘的な力によって、それが現実化されるということを言っている場合があるのである。ようするに、両者を、ごちゃまぜにして語っているのである。

たとえば、漫画家になれた人がいたとする。その人が「漫画家になると思ったから、漫画家になれた」と言ったとしよう。

実際には、その人は、漫画家になると思っただけではなくて、実際に漫画を描いたのだ。だから、思っただけではない。漫画家にまだなっていない人がいたとする。

その人が「漫画家になる」と思えば、思っただけで、漫画家になれるかというと、そうではないのだ。

しかし、『思いは実現化する』という理論のなかでは、まさに、思っただけで、漫画家になれるということを語っている部分がある。

「思ったあと、努力すればいい」という言葉が出てくるのは、人間の意識的な行動と宇宙意識のような神秘的な力によってなされることが、ごっちゃごちゃになっているからだ。

両者が、最初からごちゃごちゃだから、理論的な矛盾がないように「見える」だけなのである。

*     *     *

思霊主義者は、すでに、漫画家である人の「漫画家になると思ったから、漫画家になれた」という言葉を利用して、普遍的なことを言ってしまっているのである。しかし、すでに漫画家である人の内部環境も、外部環境も無視してしまっている。

がん無視なのである。

たとえば、絵がうまいというのは、その人の才能だ。構想力があるというのも、その人の才能だ。才能はすべて、内部環境に含まれる。

どうして、才能を無視してしまうのか? おかしいだろ。

才能を無視して「思っただけで漫画家になれる」と思霊主義者は言うのである。実際になれなかったら、「思い方がへたくそだった」とか「深層心理では漫画家になりたくないと思っていた」ということを言うのである。

しかし、これは、自己矛盾なのである。

どれだけ思い方がへたくそでも、「漫画家になる」と思ったら、思っただけで漫画家になれるのである。「深層心理では漫画家になりたくなかった」という決めつけは、実際に、漫画家になれていないということからくる、いちゃもんなのである。でっちあげなのである。

まあ、仮に、深層心理では、漫画家になりたくないと思っていたとしても、「漫画家になる」と一度でも思ったら、漫画家になれるのである。どうしてかというと、『思いは現実化する』からだ。「深層心理で、反対のことを思っていた」ということが、正しいのかどうかは別にして、『思いは現実化する』のだから思ったら、現実化してしまうのだ。

いちゃもんとペテンだ。いかさま理論なのである。

最初から、いかさま理論なのである。

*     *     *

漫画家としての能力は、まったく関係がないのである。最初から、「内部環境」を無視している。才能なんて、まったく関係がないのである。「思うかどうか」が重要だから。

けど、漫画家になれない場合は、「思い方がへたくそだった」ということになる。漫画を描く能力に問題があるのではなくて、「漫画家になる」と思ったときの「思い方」に問題があるのだ。

こんなの、おかしいと思わないのか?

うまく思うことができる人は、思いを現実化できるけど、うまく思うことができない人は、思いを現実化できない。うまく思うことができない人だって、思っているのだ。『思いは現実化する』なら、思っただけで、現実化しているはずだ。

「思い方」が問題なることは、一切合切、ないのである。

最初に「環境」を無視してしまったから、カルト的な倒錯理論が正しいと思ってしまうのである。信じている人たちよ。おまえら、ほんとうに、幻術に惑わされているぞ。

*     *     *

うーーん。「思っただけ」で夢がかなうのだから、お手軽な理論なのだけど、環境が悪い人は、思い方がへたくそだということになってしまうのである。

環境が悪い人は、環境が悪いから、うまくいかないのだけど、思い方がへたくそだから、うまくいかないのだと言われることになる。

もちろん、環境は、無視なのである。

だれがだれにという問題がある。

けど、社会にこういう考え方がはびこっているのは、けっして、いいことではない。「だまし」があるからだ。洗脳されて「思いが現実化する」「思えば、思ったことが現実化する」と思っているのである。

そうなると、じつは、悪い支配者にとって、いい状態ができあがるのである。

悪い支配者が、悪いことを実行しようとしたとき、『思霊』を信じている人たちは、簡単に術中にはまって、悪い支配者側に立って、悪い支配者の協力をしてしまうのだ。

「行動の選択肢」があった場合、悪い支配者が、徳をするように、その人たちは行動してしまうのである。洗脳された人たちは、悪い計画をおしすすめる方向に動いてしまう。

*     *     *

「よいことを思うと、よいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こる」という考え方も、悪い支配者という「参加者」のことを考えると、いい考え方とは言えない。

洗脳された人たちにとってみれば「どこが悪いんだ」と思うだろう。 

「よいことを思うと、よいことが起こり、悪いことを思うと悪いことが起こるという考え方が、正しいと思うだろう。ところが、悪い支配者という目に見えない参加者のことを考えると、これは、いいことじゃない。

俺はもう、あのときに、さんざん思い知ったからね。それについても、「いまはなきTwitter」に、すでに書いたことだけど、そのうちまた、書こうと思っている。

●ここらへんも、なんか、悪魔的なんだよなぁ■社会※2025/09/22 10:01

 本人ががんばるために、そういう幻想が必要だというのは、理解できるけど、全体としては、問題が発生する。

この問題は、無視されることが決定している問題なのだけど、ほんとうは、社会に暗い影を落としている。

だって、そうだろ。

他人には、他人の環境を無視して、「理論的に正しい」と本人が思っている言霊理論について発言するわけだから、問題がしょうじる。言霊的な考え方が、社会にいきわたっているので、言霊的な説明が、ある程度の「正しさ」を獲得してしまうのだ。

これが、問題でなくて、なんだ。

相手のことを言う場合は、かならず、相手の環境を無視したことを言うのである。

これが、運命づけられている。

言霊教祖のたくみな説明を聴かされたときから、誤解がしょうじる。言霊教祖が言っていることは、嘘だ。無害ならいいけど、有害だ。

しかも、かならず、本人が、他人を傷つけるかたちの害悪なのだ。

本人は、いいことをしているつもりなのだ。

そりゃ、いい方法を教えてやっているつもりだからな。ここらへんも、なんか、悪魔的なんだよなぁ。

こうやって、人を堕落させるのだ。

まったく悪いことをしていないつもりで、悪いことをするようにする……。積極的にするようにする……。悪魔的だ……。なんて悪魔的なんだろう。

●考えてもごらんよ……■言霊※2025/09/21 15:03

考えてもごらんよ……。

たとえば、思ったら、現実化したとする。みんながみんな、思っただけで、現実化したとする。みんな、思ったら、思ったことが現実化したとする。

そうしたら、もう、そうなっている。

いまさら「思えば、思ったことが現実化する」と言う必要がない。いまさら「思いが現実化する」という必要がない。

みんな、現実化させてしまっているからだ。

現実化しない人がいるから、おカネもうけができるのである。現実化しない人ばかりだから、自己啓発セミナーに人が集まるのである。成功した人が語る「成功のコツ」セミナーに人が集まるのである。

「これこれで成功する」と思ったら、それで、成功してしまうのだから、いまさら「成功のコツ」なんて、人から教わる必要はないだろ。

カネを払って、成功した人が語る「成功のコツ」セミナーに参加する必要は、ないだろ。

なんで、これがわからないかな。

産業として成り立っているということは、需要があるということなんだ。

「うまくいかせたいのに、うまくいかないひとが、たくさんいる」ということなのだよ。

効果てきめんの方法があったら、それで「うまくいく人ばかり」になるから、効果てきめんの方法では、もうけることができなくなってしまうのである。

ようするに、まるできかない方法だから、いつまでも、生きながらえることができるのだ。

もし、ほんとうに、「言えば言ったことが現実化する」のであり「思えば思ったことが、現実化する」のであれば、「言霊でカネがもうかる」という状態や「思霊でカネがもうかる」という状態が、ずっと続くわけがないだろ。

ようするに、言霊のセミナーも言霊の本も必要がないわけ。言っただけで、自分の願望をかなえることができるからだ。

「思いは現実化する」系のセミナもーも、「思いは現実化する」系の本も必要がないわけ。どうしてかというと、みんな、思っただけで、自分の願望をかなえているからだ。

ずっと続いているのは、それらの方法では、うまくいかないからだ。

「誤解によって成り立っている」だけなんだよ。「うまくいった場合」も、誤解であるわけ。

効果がないから、産業として成り立っている。うまくいかない人ばかりだから、「うまくいく方法」を教える人がいるわけ。 

2025年9月21日日曜日

●わかってないやつの、発言なんだよな……■騒音※2025/09/21 14:27

 あーー。時間、たっちゃったなぁーー。あーー。時間、たっちゃったなぁ。

みんな、わかっていないけど、きちがい兄貴の騒音が気にならないわけがないのである。

きちがい兄貴は、きちがいだから、自分の耳が悪くなるような音で鳴らし続けた。ハンダゴテ事件のときのきちがい親父のように、自分のなかでスイッチが入ってしまうと、ごくごく、基本てなことを認めないのである。

そりゃ、俺の身の上に起こったことだから、経験していない人は、わからない。けど、わからないのに、わかったつもりになって、むりなことを言うのである。はっきり言うと、クソを言うのである。ほんとうに、むりなことなのに、自分なら影響をうけないと思って、クソを言うのである。

一日で影響をうけるのに……やられていない普通の人たちは……「自分なら影響をうけない」と思っているのである。どうして、自分なら影響をうけないと思うことができるかというと、ひとごとだからなのである。 

*     *     * 

うちのきちがい兄貴は、よそにはいない人なのである。

だから、よその人は、経験していないのだ。きちがい的な騒音生活を経験していない。きちがい家族が、きちがい的な意地で、きちがい的な理屈で、きちがい的な感覚で、毎日毎日、長時間、きちがい騒音を鳴らし続ける……自分がこの世で一番きらいな音を、至近距離で鳴らし続けるということを、経験していない。 

普通の人は、普通の人だから、経験していないのである。普通の人が経験した騒音は、普通の騒音なのである。

普通の人が経験した騒音生活は、普通の騒音生活なのである。

『きちがい家族による騒音』ということが、どういう意味をもつのか、からだで、わかっていない。わかってないやつの、発言なんだよな……。

2025年9月20日土曜日

●いきいきとした感情の発露である「リアクション」をうしなった■騒音※2025/09/17 10:10

 ヘビメタ騒音で!!!いきいきとした反応をかえせなくなってしまったのである。

これは、ヘビメタ騒音でそうなったわけで、ほかの理由でそうなったわけではない。

まあ、ヘビメタ騒音が、二次災害、三次災害を引き起こすし、二次災害、三次災害のなかで、きちがい親父とのかかわりが生じてしまう場合もあるし、ヘビメタ騒音とは関係なく、べメタ騒音が鳴っている生活のさなかで、きちがい親父が発生源である障害がいっぱい、しょうじるわけだから、ヘビメタ騒音だけが理由かといったら、ちょっとだけまちがいがしょうじるのだけど、きちがいヘビメタ騒音が、最大の理由であり、きちがいヘビメタ騒音が、その後のさまざまな理由の発生源であるということは、うたがいがない事実だ。

きちがいヘビメタ騒音の繰り返しにより、いきいきとした反応をかえせなくなった。もし、ヘビメタ騒音がなければ、いきいきとした感情がしょうじて、いきいきとした反応をかえせるのである。

人が言ったことや、人がやったことに対して、いきいきとした反応をかえすことができたのである……。ぼくは……。ヘビメタ騒音漬けになり、いきいきとした感情を……うしなう……まえは……。

毎日毎日、何時間も何時間も、きちがいヘビメタ騒音が続いたことにより、いきいきとした感情をうしない、いきいきとした感情の発露である「リアクション」をうしなった。

ヘビメタ騒音が続いているときは、つらい。

けど、鳴り終わったあとも、おなじぐらいに、くるしいのである。「そんなことはない」「自分なら平気だ」と思える人は、ぼくと同レベルの騒音を経験したことがない人だ。

騒音の質と、騒音のでかさと、騒音を鳴らしている人がちがうのである。ようするに、同質、同量の騒音を経験していない。

経験すれば、そうなるということが、必然的にわかる。

いやだって、わかるのだ。

わかっていないのだから、経験していない。

経験していない人には、そういう症状があらわれない。だから、自分なら平気だと、逆に考えているだけなのである。

そういう自信にすぎないのである。

もし、ほんとうに、経験したら、そんなことは、言っていられなくなる。

生活の中で、いやというほど、思い知らされる。思い知らされることが、次々に起こる。

そして、自分のからだが、すでに、きちがい家族による激しい騒音におかされているので、次々と発生するトラブルや、ものすごくいやなことを、きちがい家族による激しい騒音におかされたからだで、経験することになるのである。

ようするに、トラブルが発生しているときも、いやなことが起こっているときも、自分の進退は、ヘビメタ騒音を経験した身体なのである。ヘビメタ騒音の影響下にある身体なのである。

ヘビメタ騒音の影響下にある身体を使って、ヘビメタ騒音の結果しょうじる二次的なトラブルや、三次的なトラブルに対応しなければならないことになるのである。

そうなると、感情が、どんどん、けずられていくということになるのである。

その問題が、「元気だ元気だ」と言えば、解決できる問題なのかというと、解決できない問題なのである。

その問題が、「楽しい楽しい」と言えば、解決できる問題なのかというと、解決できない問題なのである。

できないのだよ。

ところが、「できる」と言い張るやつが、次から次へと登場する。みんな、おなじことを言う。

「言い方が悪いから、現実化しない」「こころをこめて言えば、現実化する」「現実化するまで、何回でも言えばいいじゃないか」というようなことを言うことまで、おなじなのである。

●つねに誤解をされて生きてきた■騒音※2025/09/20 18:37

 ほんとうに、どれだけ言ってもしかたがないけど、きちがい家族の騒音にやられ続けた人生というのは、なんなんだ。

きちがいヘビメタ騒音がきつすぎる。

毎日、影響があった。

鳴り終わったあとも、きつくてきつくてしかたがなかった。毎日、つもった。ほんとうに、鳴り終わったあと、眠れなくなるのに、遅刻をすれば俺のせいだということになる。

ほんとうに、きつい。

あのときから、ずっと、きちがい騒音と世間の基準に挟まれてきたんだよな。世間の人たちはヘビメタ騒音の話をしても、認めない。影響を認めない。

「家族で話し合えばいい」と言う。きちがい家族のことがまったくわかってない発言をする。

なにが、「鳴り終わったら関係がない」だ。ふざけるな。

「鳴り終わったら関係がない」なんて言えるやつが経験した苦労なんて、たいした苦労じゃないよ。

「鳴り終わったら関係がない」なんて言えるやつが経験した騒音なんて、たいした騒音じゃないよ。

ぜんぜん、わかっていない。

つねに誤解をされて生きてきた。

だいたい、「言えば言ったことが現実化する」と言うやつは、「誰かが愚痴を言うこと」すら、言霊で、解決できない。解決できないのに、ヘビメタ騒音は、言霊で解決できると思っているのだ。こんなの、ない。

●「これ以降、Eさんは、愚痴を、一切合切言わない」■言霊※2025/09/20 9:32

DさんがEさんと会って話をしているとき、「Eさんが愚痴ばかりを言う」と思ったとする。

その場合、言霊理論が正しいなら、Dさんは「これ以降、Eさんは楽しい話をする」と言えばよいのである。そうすると、Eさんは、楽しい話をするようになるのである。言ったことが、現実化するのだから、そうなるのである。

楽しい話ではなくても、「これ以降、Eさんは愚痴を一切合切、言わなくなる」とDさんが言えば、それで、問題は解決する。「Eさんが愚痴ばかり言うから不愉快だ」とDさんが思ったから、それが、Dさんにとっての問題になった。

言霊的な解決方法を実行するなら「Eさんは、愚痴を言わない」「Eさんは、有益で楽しい話をする」と言ってしまえば、それで、Eさんは、愚痴を言わなくなるし、有益で楽しい話をするようになるのである。

けど、Dさんは、言霊主義者なのに、言霊的な解決法を「こころみよう」ともしないのである。言霊(理論)が正しいなら、言霊で解決できるだろ。

なんで、自分が一倍速で経験していることについては、言霊で解決しようとしないのか。

言霊の力を使えば、一発で、解決できることじゃないか。

「これ以降、Eさんは楽しい話をする」と言ったあと、Eさんが、あいかわらず、愚痴ばかりを言っているのであれば、言ったことが現実化しなかったということになる。

言霊的な解決方法は、無意味だったということになる。

すぐに、言霊理論が正しいのか、まちがっているのか、判定することができる。

こういう日常的な場面では、言霊主義者は、言霊的な解決方法を「こころみよう」ともしないのである。無意識的には、「言ったってむだだ」と思っているからだ。

ほんとうは、信じていないのである。

熱心な言霊主義者も、ほんとうは、「言霊理論」なんて信じていないのである。言霊理論を信じたくなるのは、自分の夢にかかわる話なのである。夢の話というのは、時間的な余裕があり、なおかつ、現実感がほんとうの現実よりも、たしょう、おとるものだ。

メインは、これなのである。

他人の話も、他人の現実も、本人にとっては、現実感がないので、言霊理論が正しい」と行こうとになってしまう。しかし、自分を中人にしてみた場合、ほんとうに、現実感があることについては、ほとんどすべて、「言霊じゃだめだ」「言ったって解決しない」と思っているのである。

しかし、「言霊じゃだめだ」「言ったって解決しない」と思っているいうことに、気がついていないのである。本人が、気がついていないのである。

本人のなかでは、夢をかなえるためには、「言霊は、真実」でなければならないのだ。

「言霊は、真実」という言葉を翻訳すると「言霊理論は正しくて、言霊は存在しており、言霊の力によって、自分が言ったことが現実化する」ということになる。

それなら、「Eさんが、愚痴ばかり、言う」と思ったときに、「これ以降、Eさんは、愚痴を、一切合切言わない」と言えばいいだろ。そうすれば、それが魔法のように作用して、Eさんは、愚痴を一切合切言わなくなる。

言霊の力によって、Eさんは、愚痴を言えなくなるのだ。

Dさんの言葉に宿っている言霊の力が、Eさんをして、愚痴を言えなくさせるのである。

この力は絶対で、どんな場合でも、絶対的に作用するのである。「言霊の法則は、絶対」なのである。

だったら、言えばいいだろ。すぐに問題を解決できる。

*     *     *

「相手が愚痴を言う」という問題ですら、言霊的な解決方法で解決できないのに、人には「言霊は絶対だ」「言えば言ったことが現実化する」「これは絶対に正しい」と言うのである。

何度も言うけど、自分は、言霊で、「Eさんが愚痴を言う」という問題すら、解決できないのである。

自分は、言霊で、「Eさんが愚痴を言う」という問題すら解決できないのに、「言霊は絶対だ」「言霊の法則は絶対だ」と言うのである。自分がなにを言っているのか、わかっていないのである。

「相手が愚痴を言うので、不愉快になる」としよう。相手が愚痴を言うという問題も、自分が不愉快になるという問題も、言霊では解決しない。

言霊で解決しようともしないのだ。

「腹がたたない」と言えば、腹が立たなくなるのだろう。受け止め方の問題だと言っている人は、受け止め方をかえればいいと言っている。「相手が愚痴を言っている」という「受け止め方」をかえればよいのである。

言霊主義者なら、「相手が愚痴を言っているとは思わない」と言えば、相手が愚痴を言っているとは思わなくなるのである。

「相手をかえるのはむりだから、自分がかわるしかない」と言っている精神世界の人もいる。これは、言霊の力で相手をかえることは、できるという考え方とは、ちがう考え方だ。言えば、言った通りになるのだから、言った通りに、相手をかえることだってできる。当然できる。

ところが、「相手をかえるのはむりだから、自分がかわるしかない」と「言霊的な考え方」が同居しているのである。

「相手が愚痴を言わないようにする」ということもできないし、「相手の愚痴を聞くと不機嫌になる」という「自分の感じ方」も、かえられないのだ。

なので、「相手の愚痴を聞かされた」と思って、相手に対して不愉快な感情がわくのである。「相手の愚痴を聞かされた」と腹をたてるのである。

けっきょく、精神世界の人は、自分が一倍速で体験している問題に関しては、精神世界でよく言われるような解決方法を使わないのである。

本人が、日常的に感じていることに関しては、精神世界的な問題解決方法を、採用しないのである。

●親切心で、他人に「嘘」を教えるようになってしまうのである■言霊※2025/09/20 9:26

「言っただけで、自分の夢がかなうなんて、いい話じゃないか」と思うかもしれない。それが、罠なんだよ。「自分の夢がかなう、すばらしい方法を教えてやる」ということなのだ。

お手軽で、簡単。だれにでも、すぐにできる。こんな、いい話はない。……ところが、罠なのである。

それは、嘘なのである。一〇〇%詐欺であり、法則性詐欺なのである。この話を信じてしまうと、他人の過去を否定して、他人に説教をするようになってしまうのである。

親切心で、他人に「嘘」を教えるようになってしまうのである。

しかも、「嘘」を教えているつもりがないという、副作用つきだ。

こんなのは、ない。

善意で、人をだまし、善意で、人の過去を否定するようになるのである。

●「裏メッセージ」■言霊※2025/09/20 9:08

 DさんとEさんの問題というのは、じつは、DさんとEさんだけに限られた問題ではなくて、現代に生きる人、すべての問題だと言える。

なにかしら、言霊主義の影響をうけているからだ。

だいたい、言霊という考え方にしても、言霊を信じている人がまわりに一人でもいれば、その一人は、外部環境になる。そして、言霊主義者であると明言していなくても、言霊主義の影響をうけた人は多い。

「言っただけで、言った通りになる」というのは、ほんとうは、ばかばかしい話なのだけど、リアリティーをもってしまうのでる。

「言霊」というようなタームを用いると、「信じ込ませることができる」のだ。

そして、言霊というタームは、環境の差を、根本的に無視しているタームなのだ。

「どんな人だって」「言えば」「こうなる」ということだから、本人を中心にした場合の「環境の差」を無視してしまう。

最初に、根本的に、「環境の差を無視する」ことが理論の中心に横たわっているのである。これが、絶対の前提なのである。

基本的なことを言ってしまうと、精神世界のなかではやっている理論や努力論や運しだい論というのは、すべて、環境の差を無視したところに成り立っている理論なのである。

「環境の差なんて関係がない」というのが、この手の理論にこめられた「裏メッセージ」なのである。

Dさんだけが悪いのではなくて、人間の構造として、そうなるのである。ようするに、言霊を信じた人は、Dさんのように感じて、Dさんのように行動することになるのである。Dさんだけが、他人の「環境」に鈍感であるわけではないのだ。

言霊思考を受け入れた人というのは、他人の環境に鈍感になるのである。

しかし、自分の環境には、敏感なのである。

どうしてかというと、自分の環境のなかでくらしているからだ。

つまり、人間は、自分の環境を無視できないのである。

しかし、人間は、他人の環境を無視できるのである。だから、一倍速で自分が経験していることと、一倍速で他人が経験したことに関する、認知の差は、そのまま、態度の差になってあらわれる。

だいたい、他人のことを、自分のこととして体験するということは、むりなので……似たようなことはできるかもしれないけど……基本的に無理なので……「ひとごと」だと、どうしても、ひとごとになってしまう。

「ひとごと」は「ひとごと」にしかならない。

その場合でも、環境を無視したことが前提にあるにもかかわらず、環境を無視した理論だということが前面にあらわれないような理論というのは、有害な影響を及ぼすのである。

信じた人に有害な影響を及ぼし、信じた人のまわりにいる人に有害な影響を及ぼすのである。

2025年9月19日金曜日

●まさに、言わなかったことが現実化したのである■言霊※2025/09/19 20:40

Dさんは、Eさんが愚痴を言わなかったときに、突然「Eさんが愚痴を言って、自分が不機嫌になる」と言ったわけではないのだ。

言わなかったことが、現実化したのだ。

DさんはEさんと、親しく話をするような中になるまで、Eさんとは、あいさつするだけのなかだったのである。

だから、Eさんが、あいさつ代わりに、政治に関する自分の意見を突然、述べるということはなかった。

長く話をする仲になったから、Eさんが、自分の意見を述べるようになったのである。

Eさんが、政治について自分の意見を述べるまえに、Dさんが「Eさんが政治についてEさんの意見を述べるようになる」ということを予見して、「Eさんが、政治ついてEさんの意見の述べる」と言ったから、Eさんが(Dさんに)政治の意見を述べるようになったのかというとそうではないのだ。

つまり、「Eさんが、政治ついてEさんの意見の述べる」とDさんが言ったから、その言葉に宿る言霊の力によって、Eさんが政治についてEさんの意見を述べるようになったのではない。

Eさんは、「この政治家はけしからん」「この政治家は、こうするべきだ」という自分の意見を述べたのだ。どうして述べたかというと、Eさんがそう思ったからだ。

Eさんのなかでは、Eさんの意見をDさんに教えてあげるのは、有益なことだったのである。

言霊主義者は、言霊について知らない相手に、言霊的な解決方法をすすめることがある。言霊主義者にとっては、言霊理論を知らない人に、言霊理論に基づいた解決方法を説明してあげることは、いいことなのである。言霊主義者は、相手にとってその情報が、重要で有益だと思ったから、説明してあげたのだ。

それとおなじで、Eさんは、自分が政治に関して意見を言えば、Dさんが同意してくれると思っていたのだ。

しかし、Dさんにとっては、Eさんの意見は、行きすぎた「べき論」であって、興味がないものだった。Dさんは、Dさんで、政治にいて考えるところがあり、その考えは、Eさんの考えとは合致していなかったのである。

Eさんは、Dさんが同意してくれると思っていた……。Eさんは、思霊主義者でもあるので、『思いは現実化するはずだ』と思っていた。Eさんの……『Dさんが同意してくれる』という思いは、現実化しなかったのである。

『思いは現実化する』という言い方にも、一〇〇%詐欺が成り立っている。

「すべての思いは、一〇〇%の確率で現実化する」という文と、「思いは現実化する」という文は、意味的に等価なのだ。「思いは現実化する」という文と、「思いは、現実化する場合だってある」という文は、意味的に等価ではないのだ。

DさんもEさんも、精神世界の人で、言霊主義者で思霊主義者だ。「言ったことが、現実化する」ということと「思ったことが、現実化する」ということは、両立しないということには、気がつかない。

この二人が会って話しているときだって、「思い」は現実化していないし「言わなかったこと」が現実化しているのだ。Dさんは、すなくても、自分が言わなかったことが、現実化したということには、気がつかないとダメだ。

なんで、「自分が言わなかったことが現実化してしまったんだ」と、Dさんは不思議に思うべきなのだ。

だって、そうだろ。

「Eさんが、政治について不満を言う」とDさんが言わなかったのに「Eさんが、政治について不満を言った」のだ。

まさに、「言わなかったことが現実化した」のである。

「Eさんの話を聴いて、私は不愉快になる」とDさんは言わなかった。

ところが、実際にEさんと会って話をしていたら、Dさんは「Eさんの話を聴いて、不愉快になった」のである。

まさに、「言わなかったことが現実化した」のである。

なんで、言わなかったことが、現実化するんだよ?

言ったことが、言霊の力によって、現実化するんだろ。おかしいじゃないか。

「思いは現実化する」とか「言えば言ったことが現実化する」と熱心に言ってたって……言ってたって……現実は……こんなもの。げんじーーつはぁーーーーこんーーなぁーーもん。

●相手の発言や相手の行動によって、自分が不機嫌になったと考えているのである■言霊※2025/09/19 17:08

たとえば、Eさんがネガティブな発言をしたとDさんが思ったとしよう。

この場合、Eさんが、ほんとうに、ネガティブな発言をしたのかどうかはわからない。客観的に「Eさんがネガティブな発言をしたのか」わからないのである。

しかし、とりあえず、別のことを言いたいので、客観的に、Eさんがネガティブな発言をしたということに、しておこう。そういう前提で話をすすめる。

問題なのは、Eさんの言葉に宿っている言霊の力によって、Dさんが不愉快になったのだとDさんが考えないことだ。Dさんは、こういうときは、Eさんの言葉の問題だと思っているのである。

ようするに、「言霊の力」によって自分が不機嫌になったのではなくて、「言葉の力」によって自分が不機嫌になったと思っているのである。

Eさんの言葉に宿る言霊の力は、効力をもっていないのである。

『Eさんの言葉に宿る言霊がDさんをして、不機嫌にさせた』とDさんが思っていないということに注目しなければならない。

Eさんの言葉の意味をDさんが解釈して、不機嫌な気持になったのである。

言霊は、一切合切出てこない。

出てくるのは、言葉であり、言葉の意味なのである。

なにか神秘的な言霊の力によって、Dさんが不機嫌になったのではないとDさんが考えているということは、重要なことなのである。

言霊の神様に、自分が不機嫌になるように、おいのりをしなくても、言葉の意味によって、不機嫌になったのである。

「神秘的な言霊の力は、関係がない」とDさんは、このとき、考えているのである。

一倍速で(自分自身が)体験していることに関しては、相手の発言や相手の行動によって、自分が不機嫌になったと考えているのである。あるいは、感じているのである。

言霊は、一切合切、でてこない。Dさんの思考のなかに、出てこない。Dさんの頭の中に、でてこない。

ところで、Dさんは、自己責任論者なのだけど、相手の発現や相手の行動によって、自分が不機嫌になったと考えているのである。

自分が不機嫌になったのは、相手のせいだと考えているのである。自分が不機嫌になったのは、Eさんのせいだと考えているのである。

自分が不機嫌になったのは、自分のせいだとは、考えていないのである。

しかし、Dさんは、自己責任論が正しいと(ほかの人には)主張しているのである。そして、「自分は、自己責任論で生きていくよ」と(そのほかの人に)断言したのである。

自分が一倍速で経験していることに関しては、普通に「相手のせい」にしているのである。

問題なのは、Dさんが言霊主義者で自己責任論者であるにもかかわらず、相手の発言……ここではEさんの発言によって、自分が不機嫌になった考えていることなのである。

本人にとってプロセスがあきらかな場合には、言霊の力は(考えのなかに)出てこないのだ。そして、「すべては自己責任だ」と考える「自己責任論者」ではなくて、「自分に責任がある場合もあるし、相手に責任がある場合もある」と考える「普通の人」になってしまうのである。

問題なのは、このような考えが「自分は自己責任論者である」という自己イメージを毀損しないことなのである。問題なのは、このような考えが「自分は言霊主義者である」という自己イメージを毀損しないことなのである。

ほんとうは、毀損されるべきなのである。

本人が、自分のやっていることに気がつかないだけなのである。

本人が、自分のやっていることに気がつかないから「自分は自己責任論者である」という自己イメージや「自分は言霊主義者である」という自己イメージが傷つかない。

●「ネガティブが伝染する」■言霊※2025/09/19 6:09

 言霊主義者は「言えば言ったことが現実化する」と言っているけど、「弱気がうつる」といったようなことを言う。言えば言ったことが現実化する……のだから、「弱気がうつる」なんてことは気にしなくていいのである。

「弱気はうつらない」と、ひとこと言えばいいのである。あるいは、「自分は他人の影響をうけない」と、ひとこと言えばよいのである。それで、解決できる。

なんで、弱気がうつることを気にするのか?

言霊の力を信用していないからだ。

言霊の力を信用しているのであれば「弱気は、つうらない」「他人の弱気は、自分の気持ちに影響をあたえない」と言えば、それで、一件落着だ。

問題を解決できる。

なんで、他人の弱気が、自分に伝染することをおそれるのか?

言霊の力を信用していないからだ。 

「ネガティブが伝染する」ということについてもおなじだ。

言えば言ったことが現実化する……のだから、「ネガティブが伝染する」なんてことは気にしなくていいのである。ネガティブが伝染する」というのは、「ネガティブな人といると、自分もネガティブな気持になる」ということだ。

ネガティブな人というのは、何事にもネガティブな人でもいいし、たまたまネガティブな気分になっている人でもいい。

ともかく、「ネガティブな人」のことだ。

これも、じつは、相対性が成り立っていて、だれかが、だれかのことを「ネガティブな人」だと認識したにすぎないのだ。ほんとうに、だれかが「ネガティブな人」なのかどうかは、わからない。

*     *     * 

また、DさんとEさんに登場してもらおう。たとえば、Dさんが、Eさんのことを「愚痴ばかり言うネガティブな人だ」と認識したとする。その場合、Dさんのなかでは、Eさんは「ネガティブな人」になるけど、実際に、Eさんがネガティブな人なのかどうかは、わからない。

Eさんは、熱心に政治のことを考えて、ポジティブに政治批判をしている人なのかもしれない。

「Eさんは、ポジティブに政治批判をしている人だ」と積極的に評価する人にとっては、Eさんは、ポジティブな人なのである。

Dさんが、Eさんの言っていることは、批判ばかりでネガティブだ」と評価しただけなのである。そのDさんが、「Eさんといると、ネガティブな気持がうつる」と思ったとする。

Dさんは言霊主義者なのだから、「Eさんといると、楽しい気分になる」と言えば、楽しい気分になる人なのである。

ところが、実際には「Eさんといると、ネガティブな気持がうつるので、Eさんとの付き合いを断とう」と思ったのである。

ぜんぜん、言霊的な解決方法をためそうとしないのだ。

それから、これ、言ってしまうと、おしまいなのだけど、ちょっとだけ、言っておこう。

Eさんも、言霊主義者なのだから、政治について、「これはこうなる」と言えば、それだけで、問題を解決できるのである。「この政治家は、こうする」と言えば、「この政治家は、こうする」のだ。「この政策はこうなる」と言えば、「この政策は、こうなる」のだ。「これこれこういう法律ができあがる」と言えば、「これこれこういう法律ができあがる」のだ。

言うだけで、自分が思った通りにすることができる。

言霊主義者なのだから「言えば言ったことが現実化する」ということを信じているはずだ。

言って、解決すればよいのである。

Dさんは、友人であるEさんが「これこれこういう法律が制定されるべきだ」と言っているのだから「これこれこういう法律が制定される」とひとこと言ってあげればいいのである。

そうすれば、Dさんが言ったことが、現実化されるので、これこれこういう法律が制定される。

実際に、制定される。

時間制限をつけて「これこれこういう法律が、今日中に、制定される」と言えば、言霊の力によって、「これこれこういう法律が、今日中に、制定される」のである。

だから、言うだけで問題解決できる。

この場合の「問題解決」というのは、Eさんの考えていることが現実化されるということだ。

Eさんの気持ちが満たされるわけだから、いいじゃないか。

ところが、Dさんは、「Eさんといるとネガティブがうつる」などと思って、Eさんとの付き合いをたったのである。

DさんもEさんも、言霊主義者なのに、肝心なところでは、言霊的な解決方法をこころみもしない。

●「話・抽象」思考にもならず「他人・抽象」思考にもならない■精神世界※2025/09/19 3:26

たとえば、言霊教祖から、言霊信者が「言霊の話」を聴いているときは、言霊について、抽象的な話を聴いているのである。

具体例が、具体例になっていないということは、話した。

今回、言いたいのはそういうことじゃない。抽象的な話を聴いているときは、抽象的に話を理解するということなのである。

だから、これを「話・抽象」と言っておこう。

自分が一倍速で経験していることについては、それぞれ「あたりまえだ」と感じる理由が成り立っていて、言霊主義者も言霊思考にはならないのである。

だから、これを「自分・非抽象」と言っておこう。そして、他人の話を聴いたときは、他人の身の上に起こったことは、自分の身の上に起こったことではないので、他人の話を抽象的に理解してしまうのである。

これには、個人の能力である程度、差がある。

相手の立場に立って考えることが苦手な人は、相手が言っていることを「おおざっぱ」にしか理解できない。なので、理解度に差がある。理解度に差があるのだけど、「ひとごと」であることにはかわりがなく、自分の経験ではないことには、かわりがないということになる。

というわけで、とりあえず、このことを「他人・抽象」と言っておこう。

そうすると、「話・抽象」と「他人・抽象」は「抽象」であって、自分のことに関しては、「自分・非抽象」ということになる。

この「非・抽象」というのは、「具体・一倍速経験・一倍速思考」と言い換えても、いい。

自分が、一倍速で経験していることなので、認知とメタ認知が成り立ち、全プロセスを体験しているので、自分の視点からものごとを考えることができるのである。

自分の身の上にしょうじた、具体的な出来事については、自分の視点で、考えているわけ。

この場合は、言霊思考になりにくいのである。

夢や希望に関すること以外のことは、ほとんどの場合、あたりまえだということで、言霊思考にならないのである。現実的な理由を重視して、現実的な理由について、不可避的に考えてしまうのである。

別に考えようと、考えることを選択するのではなくて、普通に、即座に考えてしまうのである。その場合は、「話・抽象」思考にもならず「他人・抽象」思考にもならないのである。

 

2025年9月18日木曜日

●「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはない■社会※2025/09/17 7:43

「運をあげる方法」とか「強運になる方法」ということについて考えてみよう。こういうことについて、よく言われることは、「運というのは、平等にふりそそいでいるのだけど、運をつかめる人と運をつかめない人がいる」ということだ。

「運をつかむ用意をしている人は、運をつかむことができるけど、運をつかむ用意ができていない人は、運をつかめない。その差が、運がいいとか運が悪いといった、差になってあらわれる」……というようなことを、言う人たちが多い。

「運」のかわりに「チャンス」という言葉を使う場合もある。

「チャンスをつかむ用意ができている人は、チャンスをつかめるけど、チャンスをつかむ用意ができていない人は、チャンスをつかめない」というような話をする人たちも、いる。

けど、「運が平等にふりそそいでいる」という前提は、まちがっている。

どこのうちに生まれたかということが、重要な影響をあたえる。差があるのである。もう、生まれた時点で、差がある。

そして、遺伝子などで決まる内部環境もちがうのに、内部環境の差なんて、まったく、「運」とは関係がないということになっているのである。

いや、どういう才能をもって生まれたかは、単純に言って、「運」のつかみやすさ?に影響をあたえるだろ。

才能があるほうが、才能がないほうより、「運」をつかみやすい傾向にある。

だいたい、「運」と言っているのは、この場合、なんかで成功するということなのだ。成功する人は、「運」があるから、成功するというようなへんな前提が成り立っている場合が多い。成功したあとに「運」が強いと言われるようになるのである。

「運」という言葉で、なにを表しているのかということが、ほんとうは、重要だ。

ほんとうは、外部環境と内部環境の影響をうける。成功するかどうかというのは、外部環境と内部環境の影響をうける。そして、生まれたときに、それは、きまってしまう。

もちろん、「時間経過と発達 」という問題がある。おぎゃーーとうまれたときには、わからない「才能」が花開くこともある。小さいときにはわからない「才能」が、花開くこともある。時間の経過というのは、重要な意味をもつ。

そして、意思の問題もある。

しかし、生まれたときの外部環境と内部環境は、その人が成功するかどうかということに、影響をあたえているのである。生まれたときの外部環境と内部環境を無視して、外部環境と内部環境とは関係なく「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはないのだ。

「やりやすさ」ということだって、環境のひとつだ。

たとえば、親がパソコンをもっていたので、小さいときから、パソコンを使えたという人もいる。いっぽう、親がパソコンをもっていない人もいる。親が、子どもにパソコンを買い与えなかった場合、その子どもは、小さいときから、パソコンを自由に使うということができない。

あれば、いじれるけど、ないから、いじれないという場合がある。

これだって、外部環境の差なのだ。

もちろん、パソコンに興味をもたない人もいる。

ようするに、パソコンなんかに、ぜんぜん興味をもたない子どももいる。これは、内部環境の差だ。だから、パソコンがあるうちに生まれれば、その子は、パソコンに興味をもってパソコンをつかいはじめるわけではない。

しかし、「やりやすさ」には、あきらかに差がある。

パソコンがある家と、パソコンがない家では、「やりやすさ」に差があるのだ。これは、チャンスの差だと言い換えることもできる。パソコンを気楽に小さいときからいじれる「チャンがあるかないか」の差だと言い換えることもできる。

なので、外部環境の差は、そのまま、チャンスの差になりえるのである。

「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはない。

*     *     *

なんとなくなんだけど、運しだい論は、努力論の裏返しなのではないかと思う。努力論を補完するところがあると思う。

「努力をしたけど、成功しなかった」……という人たちのために、「運しだい論」があるのではないかと思う。

「努力じゃなくて、運の差なのだ」というところに、もっていきたいのではないかと思う。

努力をしたい場合は、努力論を信じて、努力をしたくない場合は、運しだい論を信じればいいのだ……ということになっているのだろう。

しかし、運しだい論でも、「チャンスがきたとき、うまくつかめるようにしておかなければならないのだ。これは、「チャンスを待つ努力をして、チャンスがきたら、つかむ努力をしなければならない」ということだ。けっきょく、「用意をする」努力はしなければならない。

まあ、「努力論」と「運しだい論」が両方ともある場合、どっちかを選べば、気分的に楽になる。それぞれ、「努力をすれば成功する」「努力をすればいいことがある」ということや「運しだいで成功する」「運がよければいいことがある」ということを「保証」するからだ。もちろん、「保証」なんて、してくれないのだけど、「信じれば」「保証されたような気分」になるだろう。

「努力しなくても運しだいだ」ということになっていれば、「努力論」をすてて「運しだい論」を選ぶ人も出てくる。

そして、引き寄せのように、「運をあげる方法」は、お手軽だ。心構えの問題になる。用意をして待っていればいいのである。お気楽な方法を信じたい人は「運しだい論」を信じるようになる。

努力しなくてもよいのだから、お手軽だ。

しかし、配られたカードで「ある程度」決まってしまっているところがある。もちろん、人生、なにが起こるかわからない。時間の経過というのがあるからね。

けど、配られたカードの強さは、チャンスが起こる頻度に影響をあたえるのである。

だから、「チャンスが」「平等に」「ふりそそいでいる」なんてことはない。言ってみれば、チャンスは、ものすごく不平等にふりそそいでいる。生まれたときから、チャンスにおいても、不平等なのである。生まれたときから、運においても、不平等なのである。

生まれたときの「運の不平等」はガン無視してしまうのである。

そして、「運」が平等にふりそそいでいるのだということを言う。

悪い家に生まれた人は、すでに、生まれた時点で、運がないのであり、よい家に生まれた人は、生まれた時点ですでに、運がいい……のである。「運」ということを言うならそういうことになる。

「運」というのも、じつは、ひっくり返しで、現実の写し絵なのだ。現実のほうがさきに決まっていて、それを「運がいい」と評したり、「運が悪い」と評したりしているだけだ。

2025年9月17日水曜日

●「根拠」についてまちがった考え方をもっているだけ■言霊※2025/09/17 7:11

「明日、雨がふると言ったら、雨がふった」ということについて考えてみよう。

基本、この事実から言えることは、「言った通りになる場合だってある」ということだ。「言えば、言ったことが現実化する、場合だってある」ということだ。

『現実化する』という表現は、あたかも、「言ったこと」によって、現実化するというようなニュアンスをもっているけど、実際には、言ったということと、現実化したということは、関係がないことだ。

Aさんが、「明日、雨がふると言った」ということと「実際に雨がふった」ということは、関係がないことなんだよ。

どうしてかというと、雨がふるという現象に、Aさんが「雨がふる」と言ったことは、まったく、なにも、影響をあたえていないからだ。たしかに、Aさんは「明日、雨がふる」と言ったけど、Aさんが「明日、雨がふると言った」と言ったという現象とは、まったく関係なく、雨がふったのである。

ようするに、別の理由で、雨がふったのである。

物理的な理由で、雨がふったのである。

「言霊の力」とか、「神秘的な力」というのは、関係がない。

Aさんが「雨がふる」と言ったという現象と、「実際に(その日に)雨がふった」という現象は、全然関係がないのである。

そして、たとえば、「「明日、雨がふると言ったら、雨がふった」「だから、言霊理論は正しい」という思考の流れを考えると、言霊の力によって、雨がふったということになってしまうのである。

「言えば、言ったことが現実化する」という文のなかには「言霊」なんて文字は、含まれていないのである。含まれていない。

勝手に、「言霊の力で、雨がふったんだ」と考えているだけなのである。そういうふうに言っている人やそういう話を聴いた人や、言霊主義者が……勝手に、言霊の力で、雨がふったんだと考えているだけなのである。

ようするに、「言えば、言ったことが現実化する」という文の意味は、「言えば、言ったことが、言霊の力によって現実化する」という文の意味と等価であるということが、「頭の中」で成り立っているのである。

そういうふうに言っている人やそういう話を聴いた人や、言霊主義者の……「頭の中」で成り立っているのだけど、これは、まちがった関連性を勝手に自分たちの「頭の中」で、でっちあげただけだ。

「言えば、言ったことが現実化する」という文には「言霊」なんて文字列は含まれていない。こういうところにも、だましがある。

「明日、雨がふると言ったら、雨がふった」ということが、言霊があるという根拠になり、言霊の法則が成り立っているという根拠になってしまうのだけど、「明日、雨がふると言ったら、雨がふった」ということで、しめしていることは、「明日、雨がふると(今日)言った」ということと「言ったあと、次の日になったら、雨がふった」ということだけなのである。

ようするに、「言ったあと、言った通りになる場合だってある」ということだ。別に、言霊の力によって、言ったこと……すなわち、言った内容が……現実化されるなんてことは、言っていない。

「明日、雨がふると言ったら、雨がふった」という文の内容から「言えば、一〇〇%の言ったことが、言霊の力によって、一〇〇%の確率で現実する」という文の内容を導き出すのは、不可能なんだよ。

最初から、法則性なんてないんだよ。最初から、「根拠」についてまちがった考え方をもっているだけなんだよ。

●どうしても、ほかの人にはわからないのだ■言霊※2025/09/17 6:12

未来志向でものを言う場合は、「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率でかなう」という意味で、言霊について語るわけ……。

そういう法則があるから、「言えば」言ったことがかなうということを、語るわけ……。

けど、その根拠になっているのは「言ったことが、かなう場合もある」ということであるわけ……。たとえば、「野球選手になると言った人が、実際に野球選手になった」とか「明日、雨がふると言ったら、雨がふった」とかということだ。

これは、「言えば」言ったことが、かなう場合もあるという話なんだよ。ここから「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率でかなう」ということを導くことは、できないんだよ。

まず、これがわかっていないわけ。

こういうレベルなんだよ。

自信をもって、「言えば、言ったことが現実化する」と言霊主義者は言うけど、理論的にまちがっている。

まあ、ぼくは、このことについて、一〇〇%詐欺と法則性詐欺が成り立っていると言っているわけ。

ところが、言霊主義者は、目を輝かせて、ぼくの言っていることを否定してしまう。これ、わかっていないだけなのである。

たとえば、一〇〇人中九九人が、言霊主義者だとして、残りの一人が、言霊主義者じゃないとする。そうなると、ぼくが言っていることを理解できるかもしれない人は、一人だけなんだよ。九九人の言霊主義者は、たぶん、理解しない。

まあ、かわった言霊主義者が理解してくれるかもしれない。

そういう状態で、ぼくが言っていることと、言霊主義者がいっていることと、どっちが正しいのかという多数決をした場合、ぼくが負けて、言霊主義者が勝つわけ。

そして、こいつらは、「エイリがまちがったことを言っている」と言い出すわけ。そして、「エイリがへんなことを言っている」と言い出すわけ。

そりゃ、言霊主義者の視点から見ると、そう見えるわけ。でっ、この問題はけっこう、でかいんだよ。でかい。でかい。

そして、たとえば、きちがい兄貴が、普通の人が考えられないくらいに、悪いことをしたんだよ。きちがい兄貴が、普通の人がやらないことを、毎日、ものすごい意地でやり続けたわけ。

だから、普通の人は、きちがい兄貴のような家族に、毎日、やられたことがないわけ。

だから、経験がないんだよ。そうなると、そういう経験がない普通の人から見ると、ぼくがへんなことを言っているように見えるわけ。

親父のことでも、おなじことが成り立ってしまうんだよ。

こんな状態で生きていたら、そりゃ、くるしくなるよなぁ。他人に理解されないということは、横に置くとして、きちがい兄貴がやったことがひどいことだから、どうしても、影響をうけるのだ。

ところが、『どうしても影響をうける』ということが、どうしても、ほかの人にはわからないのだ。

ところで、ぼくが「これ以降、ほかの人は、ぼくが言っていることを、一〇〇%理解するようになる」と言えば、ほかの人は、ぼくが言っていることを、一〇〇%理解するようになるかというと、ならないわけ。

多くの言霊主義者が、ぼくの言ったことを理解しないまま、「言えば言ったことが現実化する。これが正しい」と言いきるわけ。

そういう現実が、まったくかわらないんだよ。


●腹をたてているときには、「うれしい」と言って問題を解決しよう■言霊※2025/09/16 11:08

「うれしいうれいしい」と言えば、うれしくなるとする。

言霊信者は、「うれしいうれしい」と言えば、どんな状態だって、うれしくなると思っている。

ところが、言霊信者であるDさんだって、「Eさんが、愚痴を言った」「Eさんの愚痴を聞かされた」と思ったときは、うれしくはない状態になるのである。

さあ、うれしくない状態になったとき「うれしいうれしい」と言うと、うれしくなるか?

Dさんの普段の主張にあわせれば、うれしくなるはずなのである。

けど、Dさんは「うれしいうれしい」と言わずに、おこって、Eさんとの付き合いをやめるという決心をしたのだ。自分のことだと、この通り、一切合切、言霊思考にならないのである。

自分が「不愉快だ」と感じたときは、「不愉快だ」と感じたままに思考をして、判断をするのである。

言霊理論にしたがえば、どんなに不愉快な状態でも、「うれしい」と言えば、うれしくなるのだろう。

だったら、Eさんとの一件のときも「うれしい、うれしい」と言えばいいじゃないか。

Dさんも人間だから、ほんとうに「うれしい」と感じる出来事が、人生のなかで、あったと思う。これは、うれしいと自然に感じる出来事があったから、その出来事のあとや、その出来事の最中に、うれしいと感じたのだ。

「うれしい」と言えば、うれしくなるとDさんが言うときの、うれしさのイメージは、実際にうれしいときに感じたときのうれしさのイメージがもとになっている。

Dさんは、自分が一倍速で、腹がたつことを経験しているときは、「うれしい」と言っても、うれしくならないのだけど、それに気がつかないのだ。

人には、「うれしいと言えば、うれしくなる」と言っている。「これが正しい」と言っている。「言霊は絶対だ」と意味不明なことまで、言っているのだ。

問題なのは、Dさんがほかの人に「うれしいと言えばうれしくなる」と言っているときは、相手が「うれしい」と言えば、ほんとうに、相手にとって「理由があるとき」のように、相手がうれしくなると、Dさんが思っているということだ。

うれしくなる理由があるときに、うれしいと思うのは、当然だ。

うれしいと自然に感じることができる出来事が、実際に起こったので、それに対応して、うれしいという感情があふれ出しているのだから、うれしいと感じているわけだ。

このときに感じる「うれしさ」と、不愉快なことがあったのに、「うれしい」と無理やり言うことで発生する「うれしさ」がおなじ程度のものだと、Dさんは考えているのである。

そういうふうに、設定して、考えている。

設定のなかでは、うれしくなる理由があって、うれしく感じるときと、不愉快だと感じる理由があるときに「うれしい」と言うことによって感じる「うれしさ」の、質と量がおなじだと、Dさんは普通に考えているのである。

ようするに、相手にとって、ものすごく、いやなことがあったとき、「うれしい」と言って感じるうれしさ」は、うれしいことが実際にあって感じるうれしさと同等レベルのうれしさだと、言霊主義者であるDさんは、勝手に思い込んでいるのである。

そして、「これが真実だ」と相手に言うのである。

「言ったことが、現実化するので、うれしいと言えば、うれしくなる」「これが真実だ」と言っているときに想定している、相手におけるうれしさの内容は、相手において、うれしいと感じる理由があったときのうれしさと、おなじレベルのうれしさだと、Dさんは思い込んでいるのである。

ものすごく腹がたつ出来事がしょうじた直後に「うれしい」と言うことで、感じる「うれしさ」と、ほんとうにうれしく感じるような出来事がしょうじた直後に「うれしい」と言ったときの「うれしさ」が同等のうれしさだとDさんは思っているのだ。

これ、どうにかならないのか?

Dさん、本人が、「Eさんは愚痴ばかり言う」と腹をたてているときには、「うれしい」と言って問題を解決しようとは思わないのだぞ。

「Eさんは愚痴ばかり言う」と腹をたてているときは、言霊主義者のDさんですら「うれしいうれしい」と言っても、うれしくならない。

「うれしい」と言っても、うれしくならないということを知っているので、不愉快な出来事のあとは、「うれしい」と言わないのである。「不愉快だ」と言うのである。

そして、今後、不愉快な思いをしないように、Eさんとの付き合いを切るというような判断をするのだ。

自分が一倍速で感じていることには、心理的な根拠を感じるのである。

ところが、自分が一倍速で感じていないことには、心理的な根拠を感じないのである。言霊主義者や、相手のみになって考えることが不得意な人は、相手のことであれば、心理的な根拠を感じないのである。

だから、中立的な状態で「うれしい」と言ったときに、「うれしくなったような気がした」というようなレベルの「うれしさ」でも、「うれしい」と言えば、うれしくなると確信してしまう。

中立的な状態で、特に、不愉快なことが発生しなかったときに、「うれしい」と言ったら、うれしくなったような気がしたというレベルのうれしさなのである。これは、弱いレベルのうれしさだ。

そして、言霊主義者は「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」とか「どんなにつかれていても、元気だ言えば、元気になる」とか「どんなにくるしくても、うれしいと言えば、うれしくなる」というようなことを言うわけだ。

「どんなに」という条件を付ける。

ところが、実生活のなかでは、不愉快な出来事が起これば、「うれしい」と言っても、うれしくならないのである。実生活のなかでは、遠距離通勤をして、ボロボロにつかれているとき、駅のホームで「元気だ」と言っても、つかれたままなのである。元気にならない。

現実生活のなかで、頭にくることがあれば、「楽しい」と言ったって、楽しくならないのである。実際は、言霊主義者だってそうなのである。

自分がおこっているときは「楽しい」と言っても楽しくならないし、「うれしい」と言っても、うれしくならないということを、無意識期には、言霊主義者も知っているのである。だから、そういうときは、言霊的な解決方法を思いつきもしないのだ。

ところが、ほかの人が不愉快だと感じているときは、本人は、現実的な理由があって不愉快になっているわけではないので、軽く考えてしまうのである。

そうすると、教条主義者になって、「言霊の法則は絶対だから、楽しいと言えば楽しくなる」と断言してしまう。

2025年9月16日火曜日

●Dさんは「過去は関係がある」と思って、Eさんとの付き合いを切った■過去※2025/09/16 5:32

 Dさんの話は、まだまだ、つづく。

「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」ということについて、考えてみよう。Dさんは、ほかの人には 「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言っているのである。

「言ったことが現実化する。これが真実だ」と言っているのである。

しかし、「Eさんが愚痴を言った」と思ったあと、Dさんが「楽しい楽しい」と言えば、Dさんは楽しくなるのかという問題がある。

自分が一倍速で経験したことだと、自分にとっての理由がはっきりしているので、楽しくならないのである。Dさんは、精神世界の人なのに「いいことを聴かせもらった」と受け止め方をかえることもできず、「楽しい楽しい」と言って楽しくなることも、できないのである。

*     *     * 

普段、Dさんは、人には「過去は関係がない」と言っているのに、Eさんにあうたびに、何回も、「政治的な愚痴を聞かされた」と思っているのである。

だから、「Eさんとあうのはやめよう」とDさんは思ったのである。

Eさんの愚痴話がいやだから……Dさんは、Eさんとの付き合いを切ったのである。Eさんとの付き合いを切るという判断をしたとき、Dさんは、過去を重視していたのである。

Dさんは「過去は関係がある」と思って、Eさんとの付き合いを切ったのだ。

ところが、Dさんは、普段「過去は関係がない」「過去はない」「過去は現在に影響をあたえない」「過去の出来事は、現在に影響をあたえない」と言っているのである。

自分が一倍速で経験した自分のことだと、普段から、過去について、普通に考えているのである。過去においてEさんが、政治に関する愚痴を言ったので、「縁を切ろう」と思ったのだ。

何度も言うけど、Dさんは過去の出来事を重視している。Dさんが「縁を切ろう」と思った時点を「現在」だとする。

「過去において、自分は、Eさんから政治の愚痴をいっぱい聞かされた」と、Dさんは「現在」の時点で、思っているのである。

「過去は無味乾燥な記憶でしかない」とするならば、「現在」の時点で、自分の感情を動かさないのである。

「過去は記憶の中にしかないものだから、現在の判断とは関係がない」というのが、過去否定論者であるDさんの主張なのだ。

「過去は、頭の中にある単なる記憶でしかないから、こだわる必要がない」とDさんは、ほかの人には言うのである。

しかし、自分のことになると、そんなことは一切合切考えず、「Eさんが、政治の愚痴を、何回も、自分に言ってきた」と判断して、Eさんとの付き合いを切ろうとするのである。

Dさんは、他人には「過去は、頭の中にある単なる記憶でしかないから、たいした意味をもたない」と言っておきながら、自分のことになると、途端に、過去の出来事を重視して、感情的な判断をするのである。

過去の出来事が、「現在」におけるDさんの判断に影響をあたえているのである。

ところが、自分が一倍速で感じたことに関しては、Dさんにとって、あたりまえのことなので、特に、過去否定論にこだわらないのである。

過去否定論者のDさんですら、過去否定論で言ってたことは、ガン無視で、普通に、過去の出来事に反応するのである。 

*     *     *

あと、ちょっとだけ言っておくと、たとえば、Dさんがエイリの騒音話を聞いたとする。

そのとき、Dさんは、「エイリという人は、過去、騒音でくるしんだのだな」と思ったとする。

でっ、この時点を、アルファの時点だとする。アルファの時点で感じた、Dさんのなかの「エイリの騒音のくるしみ」と、エイリが実際の世界で感じた騒音のくるしみが、たぶん、Dさんのなかで、おなじなのである。

だから、Dさんにとっては「エイリの騒音のくるしみ」というのは、「単なる過去の記憶」でしかない。無味乾燥な、現在に影響をあたえない、過去の記憶でしかない。

けど、実際のエイリのなかにある、騒音のくるしみに関する記憶というのは、そういうものではないのである。Dさんが理解した程度の「騒音のくるしみ」ではないのである。

けど、Dさんにとっては、「エイリの、過去における、騒音のくるしみ」というのは、自分が理解した程度の「騒音のくるしみ」でしかないのだ。ここのところで、大きくまちがっているのだ。

Dさんが理解した「エイリが経験した騒音のくるしみ」と「実際にエイリが経験した騒音のくるしみ」は、ぜんぜんちがうのである。

Dさんのなかでは、おなじものなのだけど、ぜんぜんちがうのである。

そして、Dさんにとっては、「それは、頭の中にある単なる記憶でしかないもの」なのである。しかし、エイリにとっては、ちがうのである。ぜーーん、ぜん、ちがうのである。

これは、もう、どれだけ言ってもつたわらないんだろうなと思う。

ともかく、Dさんにおける「エイリの騒音のくるしみ」というのは、たしかに、Dさんにとっては、「エイリは過去、騒音でくるしんだ」という短文のなかにあるようなくるしみでしかない。

そして、Dさんにとっては「エイリは過去、騒音でくるしんだ」というのは、単なる記憶でしかない。「エイリは過去、騒音でくるしんだ」という短文で、全内容をあらわせるような、単なる記憶でしかないのだ。

そして、「エイリは過去、騒音でくるしんだ」と思ったという記憶が、Dさんのなかにある。その記憶のなかの「騒音」とエイリが感じた「騒音」はDさんのなかでは、いちおう、同一の騒音なのだ。

しかし、エイリが実際に一倍速で経験した騒音というのは、そういう騒音じゃないのである。

「の」の重複は指摘しなくてもいい。わかっている。「エイリの騒音のくるしみ」と書いたほうが理解しやすいだろうと思って、そう書いただけだ。 

ちょっと、複雑になるけど、DさんがDさんの程度で「エイリの騒音のくるしみ」について理解した時点をアルファだとする。

そして、Dさんが、「過去にこだわる必要はない」と言ったときの時点をベータだとする。Dさんにとっては、アルファの時点の記憶も、単なる記憶でしかないのである。

だから、「過去」はほんとうに、「単なる過去の記憶」でしかないものだと、Dさんにはうつるのではないかと思う。「過去の過去」になっているんだよな。ベータの時点から見ると、エイリが実際に騒音でくるしんでいたのは「過去の過去」なんだよ。

「過去の記憶の中」の「過去」なんだよ。

そりゃ、自分(Dさん)にとっては「過去の記憶の中」の「過去」でしかないものなのだから、軽く考えるよな。だいたい、アルファの時点で、ほんとうは、よくわかっていない。

そもそも、アルファの時点で、理解した「エイリの騒音のくるしみ」というのは、ほんとうに軽いものでしかない。

そりゃまあ、自分が一倍速で、一五年間も経験したことじゃないから、そうなるのも、わかるけど、なんか、腹がたつんだよな。「そういう軽いレベルの騒音じゃない」と何回言っても、たぶん、Dさんは、理解しない。軽い理解のままだと思う。

そうすると、こわれた機械みたいに、「過去は関係がない」と繰り返すことになる。

2025年9月15日月曜日

●「Eさんが愚痴を言う」という現実は、Dさんがつくりだした現実なのである■受け止め方※2025/09/15 4:25

たとえば、DさんとEさんがいたとする。

Dさんは、精神世界の人で、言霊や思霊、受け止め方をかえればいいという考え方が正しいと思っているとする。Eさんも、精神世界の人で、言霊や思霊、受け止め方をかえればいいという考え方が正しいと思っているとする。

Eさんが、政治について批判をしたとする。Dさんは、最初はあわせていたけど、だんだん、『Eさんといるとつかれる』と思うようになったとする。『Eさんの言っていることは、正義ではあるけど、息苦しいことが多い』とDさんは思ったとする。

Dさんは、ついに切れて、Eさんとのつきあいをやめたとする。

けど、Dさんは、ほかの人には「言ったことが現実化する」「思いが現実化する」「受け止め方をかえればいい」と言っている人なのだ。

たとえば、Dさんは「Eさんといると、楽しい」と言えばよかったのである。言えば言ったことが現実化するので、Eさんといると、楽しいと感じるようになるのだ。

たとえば、Dさんは「Eさんの言っていることは、たいへんためになる」と受け止め方をかえればよかったのである。「Eさんといると楽しくなる」と受け止め方をかえればよかったのである。

DさんはEさんに感謝すればよかったのである。

「すべて、感謝感謝」なのだから、感謝すればよかったのである。「Eさんが政治の話をしてくれるので、ありがたい」と感謝すればよかったのである。

Dさんは、Eさんのいやなところ?ばかりを見ないで、Eさんのいいところを見ればよかったのである。

ともかく、Dさんは、人には「言ったことが現実化する」「楽しいと言えば楽しくなる」と自信満々で、何回も言ったのだから、「Eさんといると楽しい」と言えばよかったのである。

それで、問題解決ができる。

Eさんとの縁を切るとかつきあいをやめるという選択をする必要はなかった。

ちがうか?

たとえば、Dさんは、Eさんのことを「政治ネガティブ屋」と批判したとしよう。そう思って、そういうあだ名を、頭の中でつけていたのである。

じつは、言えば言ったことが、現実化するので「ネガティブな人といると、楽しくなる」と言えば、楽しくなるのである。

なので、言霊的な解決方法を実行するべきだったのである。

「政治ネガティブ屋」というようなあだ名をつけずに「Eさんの政治話はためになる」とEさんを、こころのなかでほめればよかったのである。

人について、ネガティブなとらえ方をせず、人についてポジティブなとらえ方をすればよかったのである。すべては、受け止め方次第なのだから、Eさんの発言についても、ネガティブな発言だと受け止めずに、ポジティブな……じつに、じつにためになる発言だと受け止めればよかったのである。

しかし、受け止め方次第だとは思わずに、自分の受け止め方にこだわって、受け止め方をかえなかったのである。

Dさんは、「Eさんは、ネガティブな話ばかりをする」「政治について愚痴ばかりを言う」と受け止めてしまったのである。

精神世界では、現実は自分がつくりだしているだけだという考え方もある。ようするに、出来事というのは、中立的に生起しているものだという考え方がある。

中立的に生起しているものに自分が、意味合いを付与してしまうのである。ネガティブな意味合いを付与すると、中立的な出来事が、ネガティブな出来事になるのである。ポジティブな意味合いを付与すると、中立的な出来事がポジティブな出来事になるのである。

なので、「Eさんは、ネガティブな話ばかりをする」「政治について愚痴ばかりを言う」という意味合いを付与してしまったのは、Dさんだというとになる。

出来事は、中立的なのである。

意味合いをもたないものなのである。

意味合いを付与しているのは、意味合いを付与している個人だということになる。

なので、どういう意味合いを付与するかは、個人が決めることだということになる。中立的な出来事にネガティブな意味合いを付与するか、中立的な出来事にポジティブな意味合いを付与するかは、個人が、決めていることなのである。

だから、この場合、Dさんが、ネガティブな出来事が発生したと思っているだけになる。

Eさんが「非常に重要なことを言った」とポジティブに受け取るか、Eさんが「愚痴を言った」とネガティブに受け取るかは、Dさんの受け取り方次第なのである。

つまり、「Eさんが、政治についてネガティブなことばかり言う」「Eさんが、政治について、愚痴ばかり言う」という現実をつくりだしてしまったのは、Dさんだということになる。

DさんがDさんの現実をつくっているのである。

「Eさんが愚痴を言う」という現実は、Dさんがつくりだした現実なのである。

まあ、こういうことを言われたら、Dさんは、あんまりいい気持がしないだろうと、ぼくは思う。

けど、Dさんがほかの人に「すべては受け止め方の問題だ」と言ったとき、相手は、そう感じているかもしれないのである。


●過去の記憶は、未来の行動にさえ、影響をあたえるものなのである■過去※2025/09/13 8:10

「過去は記憶の中にしかない」という言い方にも問題がある。「過去は記憶の中にしかないから、関係がない」とか「過去は記憶の中にしかないから、影響をうけないことは、可能だ」とうことを、言いたいのだと思う。

言っておくけど、ぼくは、「過去は記憶の中にしかない」とは、思っていない。過去の出来事は、過去の出来事であって、記憶の中にあるかないかとは関係がないのである。

過去において、Aさんが、Bさんをなぐったら、Aさんのなかに記憶があるかどうかに関係なく、なぐったということになる。

過去において、Cさんが、自宅を出るとき、玄関ドアの鍵をかけたら、Cさんの記憶とは関係なく、玄関ドアは鍵をかけられた状態になるのである。

だから、「自分」が覚えてるかどうかに関係なく、過去においてなんらかの状態の変化がしょうじたなら、過去においてなんらかの状態の変化がしょうじたということは、現在の状態に影響をあたえるのである。

しかし、今回は「過去は記憶の中にしかない」ということにして話をする。前回の続きなのだけど、非・言霊主義者のBさんが、言霊主義者のAさんが「真理だと思っていること」を批判したとする。Aさんは、精神世界の人でもあるとする。言霊だけではなくて、精神世界のなかで、語られるいろいろなことを信じているとする。

「過去は記憶の中にしかない」にしても、Aさんは、自分が真理だと思っていることを批判されたら、Bさんに対して、いやな感じをもった状態になるのである。過去においてBさんが、Aさんが真実だと思っていることを批判した。

Aさんは、普段、「過去は記憶の中にしかない」と言っているとする。「過去は記憶の中にしかないことなのだから、現在の自分に影響をあたえない」と思っているのだ。

ところが、「こいつは、言霊理論を批判したやつだ」と思っていると、Bさんに対する態度がかわるのである。「そっちが、そのつもりなら、こっちだって批判してやる」とAさんが思ったとする。

過去は、記憶の中にしかないのであれば、Aさんが、関係がないと思えば、それで、おしまいなのである。どうしてかというと、Bさんが過去において、Aさんが真実だと思っていることを批判したということは、Aさんの記憶の中にしかないことになっているからだ。

記憶の中にしかないことだから、こだわる必要がない……というのが、じつは、Aさんたちの主張なのである。

ところが、そのAさんが、実際に自分の身に起きたことに関しては、「過去のことだから関係がない」とは思わずに、「過去において、こういうことが起きたから、こいつにはこうしてやろう」と思うのである。

相手であるBさんが、陰謀論者なら、「これだから陰謀論者はあてにならない(あほなことを言う)」と言いたくなるのである。ようするに、『陰謀論者はまちがったことを言うから、言霊理論に関しても、まちがったことを言った』と思いたいのである。

相手であるBさんが、ヘビメタをきらっている人なら、「ヘビメタはリズムにのると気持ちがいい」と言いたくなるのである。もちろん、ほんとうに、ヘビメタが好きである場合もある。

ほかに例をあげるとするなら、相手が、無職なら、「これだから、無職は社会常識がない(だから、言霊理論に関しても、真理がわからずに、まちがったことを言っている)」と言いたくなるのである。

ともかく、揶揄したくなったり、皮肉を言いたくなったりするのである。

「過去は記憶の中にしかない」ということで、過去否定論者がなにを言いたいかということが重要なのである。過去は記憶の中にしかないから……なんなんだ?

過去否定論者は「過去は、単なる記憶だ」ということも言いたいのである。「単なる記憶だから、感情的に反応する必要はない」ということも言いたいのである。

過去というのは、頭の中にしかない単なる記憶なのだから、感情的に反応する必要がないのである。単なる記憶にすぎないのだから……。

ところが、当の過去否定論者が、ある記憶に関しては、感情的に反応して、嫌味や皮肉を言いたくなるのである。言霊理論を否定されたということは、言霊理論を否定されたという単なる記憶ではないのである。

あるいは、「相手が……自分が真理だと思っている言霊理論を真理ではないと言った」ということは、単なる記憶ではないのである。単なる記憶ではなくて、感情を伴った記憶なのである。

もちろん、比較的に言って、感情を伴わない記憶もある。

完全に感情を伴わない記憶があるのかどうかということは、ちょっと、わからない。そのときのメタ認知は成り立っているから、なんらかのことは、認知して、感じていると考えるほうが自然だ。

けど、そういうもののなかで、感情的な動きを感じない記憶だと判断できる場合もある。

その判断基準が、たぶんぼくの判断基準とはちがうのだろう。

まあ、ぼくにしても、比較的に言って、感情を伴わない記憶はあると思う。無味乾燥、無感情である状態で、発生した出来事に関しても、無感情なときに発生した出来事であるというようなメタ認知が成り立っている。

無感情だというメタ認知が成り立っているということは、その記憶が、無感情だという色に染められていたということだ。

ともかく、過去の記憶が単なる記憶にすぎないのであれば、その記憶が、感情的な判断に使われることはないのである。

「こいつは、こういうことをした」という記憶は、単なる記憶ではなくて、感情を伴った記憶なのである。なので、過去の記憶だけど、現在の判断に影響をあたえるのである。

現在の判断は未来の行動に影響をあたえるのである。

なので、過去の記憶は、未来の行動にさえ、影響をあたえるものなのである。

これは、無味乾燥な単なる記憶ではないということを意味している。

なので、「過去は記憶の中にしかないから、影響をうけない」という理論はまちがっている。過去の記憶は、過去の記憶なので、現在の感情や判断に影響をあたえるのである。

2025年9月14日日曜日

●言うに言えない、不愉快なことが発生するのである■騒音※2025/09/14 1:55

現実というのは……全部……いやだな。ヘビメタ騒音でつらすぎる。みんな、ヘビメタ騒音がどれだけ影響をあたえるか、ぜんぜんわかっていない。もう、いやだな。ほんとうに、いろいろな連鎖で、すべてが、くるしいことになる。ヘビメタ騒音を起点として、いろいろな、言うに言えない、不愉快なことが発生するのである。

長かったなぁ。ほんとうに、みんなわかっていない。ほんとうに、わかっていない。 

●「つらいこと」というのも、一意には決まらないのである■言霊※2025/09/12 17:00

「ポジティブ言葉を使うと、つらい毎日になってしまう」ということを書いたけど、ちょっと付け足しておく。それは、言霊主義者側の、誤解についてなのである。

基本、言霊主義者は「言ったことが現実化する」と考えているので、いかようにでも書き換えることができると思っているのだ。

そのくせ、「西から太陽がのぼると言えば、西から太陽がのぼるのか」ということに関しては、「西から太陽がのぼると言えば、西から太陽がのぼるなんていうのは、おかしい(まちがっている)」と考えるのだ。

自分でも、「それは、むりだ」と思うことに関しては、頑固な言霊主義者も、言霊主義者であることをやめてしまうのである。

ようするに、言霊主義者だって……自分が「それはむりだ」と思うことに関しては、「言ったって、言ったことが現実化しない」と思っているのである。だから、自分がどう思っているかということが、ほんとうは、重要なのである。

言霊理論だけに集中して議論すると……議論なんてものにはならないのだけど……意見をかわすと……言霊主義者は「自分が、それはむりだと思っていることに関しては、言ったって現実化しない」と考えていることを、わすれて、ただ、「言えば、言ったことが現実化する。これは、正しい。実際に自分が言ったときは、現実化した」という話をするのである。

そして、普段、自分が暮らしている場面では「これは、言ったってむりだ」と思うことに関しては「言ったって、言った通りになるはずがない」と考えているのである。そういう矛盾した存在なんだよ……。言霊主義者というのは……。

言霊主義者にとって、自分……が、むりだと考えるか、むりだと考えないかということが、非常に重要なことなんだよ。

他人のことだと、環境(条件の束)を無視してしまうので、「理論」だけが重要になってしまうのである。抽象化した理論だけが重要なことになってしまうのである。だから、言霊理論が正しいかどうかという話になると、言霊主義者は、一種、教条主義者になってしまうのである。

もちろん、その言霊主義者が、教条主義者のことを、きらっていたとしても、教条主義者になってしまうのである。

相手の現実は、見えないから、無視してしまう。

自分が一倍速で経験したことではないので、現実味がないのだ。他人の経験に関しては、まったく現実味がない。

相手の現実を無視してしまうのである。

自分のことなら、「これはむりだ」と思うことに関しても、他人のことだと「これはむりだ」と思わずに、「言えば言ったことが現実化する」と言ってしまうのである。

環境には、内部環境と外部環境があるということを書いたけど、このどっちも、むししてしまうのである。

相手が経験したことは、自分にとってリアルじゃないから、無視できるのである。

自分が経験したことに関しては、メタ認知が成り立っているから、むりだということがわかるのである。相手が言っていることに関しては、……相手が言っているという場面におけるメタ認知は成り立っているけど……言っている内容そのものに関しては、メタ認知が成り立っていないので、平気で無視することができるのである。

だから、「むりだ」とは思わないのである。言えば言ったことが現実化するので、「できると言えばできる」と助言してしまうのである。

つらいことでも、「できる」と言って、がんばればいいということになってしまう。相手のことなら、そういうことになってしまうのである。言霊主義者のなかでは、そういうことになってしまうのである。

ブラック社長の下で働いているときのように、条件が悪い人は、とても、苦労をしているのである。それを「だれだって苦労している」とか「自分だって苦労した」と言って、無視してはいけないのである。

ともかく、つらい状態がすでに成り立っているなら「できるできる」と言って、がんばっても、つらい状態が、よくならないのである。時間経過というものがある。

だから、つかれた状態でがんばっていると、もっとつかれるのである。その場合「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。身体的につらいことを、長い期間続けると、精神的には憂鬱になる場合が多い。

これまた、言葉のあやなんだけど「つらいこと」というのが、一意には切らないのである。

たとえば、テニスの試合をして、つらい状態で、つらいと思いながらも頑張ったとする。その結果、勝てたとする。その場合、『つらくても頑張ってよかった』と考えることができる。

この場合の「つらいこと」は、あとで、憂鬱になるようなことではないのである。

ストレス対抗で、がんばったら、効果があった……あるいは、効果があったと実感できたという場合は、ブラック社長のもとで「つらいこと」をしているような憂鬱な気持にはならないのであるる。

それは、つかれてがんばっても、敗北しかないからそうなる。

「つらいこと」というのも、一意には決まらないのである。 

一例をあげて、あたかも、すべての場合において成り立つようなことを言う人がいるけど、抽象化、法則化する場合は、注意しなければならない。

 

2025年9月13日土曜日

●精神世界のなかで言われていることと、根本的な良心は、関係がない■精神世界※2025/09/13 5:40

言霊主義者は、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化される」ということは、正しいと思っている。言霊主義者は、「事実だ」「真実だ」と言って、聞かない。

言霊主義者にとっては「言えば言ったことが、現実化する」というのは、事実だから、「事実だ」と言って、認めないのである。言霊主義者にとっては「言えば言ったことが、現実化する」というのは、真実だから、「真実だ」と言って、認めないのである。

その言霊主義者が、精神世界の人で、普段は「相手をかえるのは、むりだから、自分がかわるしかない」などと言っていたって、自分が真理だと思っていることを否定されたら、おこって、否定するのである。

相手が言っていることを否定して、自分が言っていることが真理だと主張するのである。

自分がかわるのではなくて、相手をかえようとするのである。

さらに言ってしまえば、その言霊主義者が精神世界の人で「すべてに感謝感謝」と言っていたって、自分が真理だと思っていることを、真理ではないと言ってきた相手には感謝しないのである。自分が真実だ当言っていることに関してもおなじである。

さらに言ってしまえば、その言霊主義者が精神世界の人で「すべては自己責任」と言っていたって、「自分が真理だと思っていることを、否定された」のは、自分の責任だとは思わずに、相手が「自分が真理だと思っていることを、否定した」のだから、これは、相手の責任だと思うのである。

相手がやったことだから、相手の責任だと思うのである。

さらに言ってしまえば、自分が真理だと思っていることを、否定した相手には、親切にしないのである。逆に、意地悪なことをしてやろうと思ったり、意地悪なことを言ってやろうと思うのだ。意地悪なことを言わない場合も、皮肉ぐらいは、言いたくなって、言うということになりがちだ。

さらに言ってしまえば、過去否定論者でも、過去において、自分の意見を否定した人には、しかえしをしてやろうと思うことが多いのである。AさんとBさんがいたとする。Aさんは、過去否定論者で、言霊主義者だ。Bさんが、過去において、言霊理論を否定したとする。そうすると、Aさんは「この人(Bさん)が、自分が真理だと思っていることを否定した」ということを重視するのである。「この人」に対して、いやな感じがしょうじるのである。

過去は関係がないのではなくて、過去の出来事を重視するのである。

過去の出来事が、その人の認識をつくりだしたのである。その人というのは、この場合は、「自分が真理だと思っていたことを(だれかに)否定された」言霊主義者であり、同時に過去否定論者である人のことだ。

さらに言ってしまえば、言霊主義者であり、なおかつ、「人に親切にすればいいことがある」と言ってる人だって、自分が真理だと思っていることを否定した相手には、親切にしないのである。逆に、意地悪をするようになるのである。

そういう感情が、言霊主義者や精神世界の人たちのなかにも、しょうじやすいのである。

まあ、「自分が真理だと思っていたことを否定した相手にも」親切にする場合もある。それは、そういう場面もある。メタ認知があるからね。良心にしたがって、行動することがある。

「自分が真理だと思っていたことを否定した相手」に対しても、良心に従って、行動することはある。ある。

この良心というのは、別に、精神世界につかっいない人でも、持っているものだ。ようするに、精神世界の考え方と、根本的な良心は、関係がないのである。

精神世界のなかで言われていることと、根本的な良心は、関係がないのである。

 

●「日が西からのぼる」と言えば、日が西からのぼるようになる■言霊※2025/09/12 16:59

「負けたと言うから、負けた」という言い方にならず「負けると言うから、負ける」という言い方になるのは、おかしなことではない。

これは、繰り返し起こることだから、現在形になっている。

たとえば、一日のなかで、日がのぼったあとになれば、日がのぼったと過去形で言うことになる。しかし、繰り返されることだから「日がのぼる」と現在形で言うのである。「日がのぼると言うから、日がのぼる」と言霊主義者は「現在形で」言うのである。

だから、一回の勝負のあと、負けた人に、「負けたと言うから負けた」と言うのではなくて、「負けると言うから負ける」と言うのは、それだけを考えれば、理が通ったことなのである。

一回の勝負で、負けた人が、負けたと言ったとしよう。そうすると、言霊主義者が、現在形で「負けると言うから負ける」と言うのである。

しかし、たとえば、一日なのかで、午後になったとき「日がのぼった」とだれかが言ったとする。その場合、言霊主義者は、「日がのぼった」と言ったから、実際に、日がのぼったと考えるのである。

これは、もちろん、まちがいだ。

だれかが「日がのぼった」と言うから、実際に日がのぼったのか?

ちがうね。

それでは、現在形にして「日がのぼると言うから、日がのぼる」と言えば、正しいことになるか?

いやーー。正しいことにならない。

だって、そうだろ。だれかが「日がのぼる」と言ったから、日がのぼるのか?

だれかが「日がのぼる」と言ったから、日がのぼるようになったのか?

ちがうね。地球が自転しているから、東から、日がのぼるように見えるだけだ。だれかが、日がのぼると言ったことは、関係がない。

だいたい、そのだれかというのは、おぎゃーーとうまれたあと、東から日がのぼるということを、学習するのである。東から日がのぼるということが、さきで、だれかが東から日がのぼるということを学習したのは、あとのことだ。

配られたカードで、役がない場合も、おなじだ。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、役がない人で、勝つことはない。負けるか引き分けるかのどっちかしかないのだ。ようすに、Aさんは、負けやすい。連続して負けることも多いのである。

Bさんは、言霊主義者だとする。「Aさんが、負けた」と言ったところを、Bさんが見たとする。そうすると、Bさんは、言霊主義者なので、「負けると言うから、負ける」と言い出すのだ。

ならば、たとえば、「日が西からのぼる」と言えば、日が西からのぼるようになるかというと、ならないのだ。「日が東からのぼる」と、だれかが言うから、日が東からのぼるのだという言霊主義者の考え方はまちがっている。

だれかが「日が東からのぼる」と言ったから、言霊の力によって、日が東からのぼるようになったのだと言霊主義は、考えるのだ。

ならば、だれかが「日が西からのぼる」と言ったら、日が西からのぼるようになるかといえば、ならないのである。

これとおなじことが、Aさんが負けた場合にも成り立つ。

Aさんが「勝つ」と言っても、勝てるようにはならないのである。それは、「日が西からのぼると言っても、日が西からのぼるようにはならないのとおなじなのである。

だから、言霊主義者は、Aさんにむりなことを言っているのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。